2015年08月05日 17:01

8月4日から「五代友厚特別展」開催しています

こんにちは。りょく吉です。

8月に入り、日本列島は連日猛暑続きですが、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。りょく吉が子どもだったころ、もう随分昔の話ですが、そのころ「猛暑日」や「熱中症」といった言葉、なかったように思います。暑い戸外で運動や作業をするときに、よく「『熱射病』に気をつけよ」と言われた記憶はありますが、今は室内にいても「熱中症」になるのですね。それだけ、地球温暖化が進んでいるということでしょう。皆さん、猛暑の時期は無理をせず、十分に休息や水分を取るなどして、どうぞお元気にお過ごしください。

 

さて、ミュージアムでは、今週の8月4日(火)から特別展「没後130年企画『大阪の恩人・五代友厚』」が始まりました。五代は明治維新の混乱で衰退した大阪経済に再び活力を取り戻そうと活躍した企業家であり、そして、われらが大阪商工会議所の初代会頭です。今回のブログでは、「特別展といっても五代さんのこと、あまりよく知らないな」「館内には何が展示してあるの」と思われる方のために、五代のプロフィールと展示物を簡単にご紹介します。これを読めば、特別展への興味がより湧いてくること、請け合いです。

 

まずはプロフィールです。五代は1836(天保6)年、薩摩藩の儒者の家に生まれました。幼少より英才の誉れ高く、幕府が長崎に海軍伝習所を設立すると、藩から入学を命ぜられ、航海・測量などを学び、その後、1865(慶応元)年、薩摩藩英国留学生の引率者として訪英、欧州各地を視察して開明的知識を深めます。1868(慶応4)年、その新知識により政府の高官に登用され大阪に赴任します。五代と大阪との関わりはここからスタートします。

 

五代は大阪開港業務や造幣寮の開設に尽力しますが、翌年、横浜転勤を命じられます。すると「政府には人材が揃っているが、民間にはいない。自分は大阪で一般の商工業の発展に努力する」といって、役人を辞し実業界に入ります。大阪で五代は自ら貨幣から地金を取り出して造幣寮に納める「金銀分析所」を作るとともに、多数の鉱山経営にも乗り出し、これを統括する「弘成館」や国内製藍業の保護と輸出を目的とした「朝陽館」を設立しました。また、大阪商人らと「大阪製銅会社」「阪堺鉄道」「神戸桟橋会社」など、数多くの会社を興しました。

さらに、五代は経済界のリーダーとしても活躍、「堂島米会所」を再興するとともに、「大阪株式取引所」(大阪取引所の前身)、「大阪商法会議所」(大阪商工会議所の前身)などの設立にも主導的役割を果たし、名前は"五代"ながらも「大阪商法会議所」の"初代"会頭に就任します。また、商家の子弟の教育の場として「大阪商業講習所」を開設しますが、この講習所は現在の大阪市立大学につながっています。

 

このように、明治初期の大阪経済の振興に尽力し、「大阪の恩人」「大阪経済近代化の立役者」と言われている五代ですが、1885(明治18)年、49歳の若さで亡くなります。特別展では、このような五代の生涯を四世長谷川貞信氏の20枚の画(複写)で紹介(下記の写真参照)、画を見ていくだけで五代の一生がたどれるようになっています。また、五代ゆかりの品も数多く展示しています。

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主なものを紹介しますと、五代自筆の書・画としては、「欧行要集」(五代が滞欧中に記し薩摩藩主に送った富国強兵策の文案)、「御暇言上状」(役人退官の意思を表す書状)、友人に送った退官書面の一部や鉱山経営の本拠であった「弘成館」の規則、戯画「惣難獣」などが。また、書翰では、幅広い交友関係の中から、今回は木戸孝允、大隈重信、大久保利通、渋沢栄一から五代宛ての書翰(下の写真は渋沢栄一からの書翰)を、さらに大久保利通揮毫による「弘成館」「朝陽館」の扁額も展示しています。

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一方、資料類としては、製藍の「特許願」や「朝陽館」の広告ほか、新政府からの辞令類、五代の屋敷図面や所有財産書、さらには明治初期の大阪湾絵図まで多彩な資料を用意し、ごく身近で見学できるよう展示しています。これら展示品は大阪商工会議所で所蔵する膨大な資料の中から、今回の特別展用に選んだものです。

 

五代の人となりや優れた事績が、画と貴重なゆかりの品とともに見学できる今回の特別展、8月4日(火)から12月18日(金)までのロングランで開催しています。ご都合の良い時にお誘い合わせご来館いただき、「近代大阪育ての親」として時代を切り拓いた五代の足跡にぜひ触れてみてください。

投稿者 museum | 2015年08月05日 17:01