㈱柴田書店『月刊ホテル旅館』寄稿コラム 2013年5月号より
  •  第三回 素人が玄人を越えた瞬間
  •  人はいろいろな趣味嗜好を持っていますが、私の場合はそのひとつがホテルです。宿泊したホテルのデータを記録、また室内の写真も撮ってひそかにランキング表をつくっていました。つくっていましたと言うように過去に属することですが、ホテルの人には、とんでもない悪趣味だと言われそうです。出張は東京中心ですから、東京のホテルが主な対象となります。これに海外のホテルが加わります。会社には出張規定なるものがありますから、宿泊費は役員といえども規定に従わなければなりません。超高級ホテルは想定しておりませんから、東京のブランドホテルに泊まる場合は、ビジネスホテルの10倍を要することもあり、もちろん、自腹を切ることになります。
  •  一時期、東京には次々と外国資本の高級ホテルが進出しました。新しいホテルに宿泊するのが楽しみでしたから、月に1、2回の東京出張は待ち遠しいものでした。自分の懐具合の心配よりも。これで、私の趣味嗜好のほどがおわかりだと思います。ところが、最近、東京出張は某ホテルが定宿になってしまいました。以来、新しいホテルが誕生しても宿泊経験なしですから、ホテル比較ができなくなりました。趣味嗜好がひとつなくなりました。残念なことです。どうして、某ホテルが定宿になってしまったのか。うっかりして、取り込まれてしまったのです。寄る年波は避けがたく、何事もおっくうになってきたことも影響していますが、このホテルでのある出来事にいたく感心し、新旧ホテルをあれほど泊まり歩くホテルマニアだったのに、このホテルが定宿になってしまいました。
  •  今回はその出来事をご紹介し、皆さんと一緒にサービス業のサービスについて考えてみたいのです。ある日のことでした。いつものように外での会食を終えてホテルに帰り、仲間とラウンジでミーティングをしていました。寝酒を兼ねていますのでウイスキー片手です。バーボンです。口が寂しいですから、メニューブックを開きます。しかし、そのホテルには私のほしいアイテムはありませんでした。実は、私はバーボンならビーフジャーキーと決めております。これも趣味嗜好のひとつといえます。バーボンウイスキーはあるのに、メニューブックにはなぜ、ビーフジャーキーはないのか。素朴な疑問だと思います。それに私はお客さまですから、わがままになっております。それで、黒服のホテルのスタッフに「ビーフジャーキーがほしいのですが」と声をかけます。「たいへん申し訳ございません。メニューにあるものしかございません」 と丁重に断られることになります。それでも、私はあきらめません。違うスタッフにお願いしました。「申し訳ございません」 当然ながら、またまた深々と頭を下げられることになりました。
  •  私の勤務する会社でもホテルを経営しておりますので、私はホテル事情にはよく通じています。ホテルマンの深々と頭を下げた「申し訳ございせん」ほど油断ならないものはありません。初めは礼儀正しい対応だと満足していたのですが、何度もワンパターンに「申し訳ございません」と言われるうちに「これは、ひょっとして?」と思うようになりました。「申し訳ございません」は丁重であるけれど強い拒絶の物腰でもあるのではないか、という疑念です。先ほど触れましたように、お客さまはわがままです。いちいち、個別の要求や欲求に応じていてはサービスの提供ができなくなります。そこで、マニュアルが取り入れられたと思うのですが、それはそれで正解です。お客さまを傷つけることなく対応するためのマニュアルは理解できることです。でも、マニュアル化に頼っていてはダメなケースがあることをサービス業は知っておくべであることを教えられることがあります。「ごゆっくり、どうぞ」という決まり文句です。先を急ぐので、すぐ出て来る品を尋ねて注文したのに、出てきた時に「ごゆっくり、どうぞ」と言われては、大阪弁で「ナンデヤネン」と切り返したくなります。「マニュアル化は必要だが、そこには臨機応変の対応が伴わなければならない」 これがサービス業の真髄だと思います。
  •  で、定宿の話に戻ります。ついにビーフジャーキーは出てまいりました。ある夜のことでした。プロらしくない、初々しい女性スタッフがいましたので、聞いてみました。すると、「ビーフジャーキーですか。買ってまいります」 研修生からアッサリとごく自然な返事が返ってきました。素直な対応にあわてたのは、こちらです。「いらない、いらない。聞いてみただけ」 意表を突かれた思いでした。研修生の素人が経験豊かなホテルマンの玄人を越えた瞬間でもありました。マニュアルは教えられているのでしょうが、自身がまだ素人、つまりお客の気分が残っているから、こちらの気持ちを理解できたのでしょう。これこそ、真のプロと言いたくなります。定宿を持たない主義の私でしたが、以後このホテルを定宿にしております。研修生の声を聞き届けたホテルに心を奪われた次第です。そして投宿した時はいつもバーボンウイスキー片手にビーフジャーキーをかじっています。「どこのホテルですか?」 ご関心のことでしょう。このホテルの名が喉まで出ているのですが、個別具体的な欲求を聞き届けてくれるホテルだと思われてはご迷惑でしょうから、マル秘です。サービス業は本当に難しい。

((株)柴田書店出版の『月刊ホテル旅館』に2013年5月号より掲載開始。)