佐藤会頭の眼~講演録
Chairman’s Eye with you

2012年(平成24年)11月17日(土) 立命館大学経営学部50周年記念式典講演

「千客万来都市OSAKAプラン~経営から歴史を学ぶ」

CIMG5763.JPG「大阪城天守閣(昭和改修)について説明する佐藤会頭」 自由で進取的な企業精神の発露は、大大阪の大舞台で実際に発揮されます。

 ここで、今に残る大阪の名建築を見てみましょう。中央電気倶楽部です。昭和5年の建造です。耐震診断では震度7でもびくともしない、という結果が出ております。重要文化財に指定されている綿業会館も昭和5年に竣工しております。

 大阪で一番観光客で賑わう大阪城。こちらは昭和6年に出来ました。大阪城の凄いところは、市民の浄財で建設されたことです。150万円も集まり、その内の三分の一が大阪城天守閣、残りは陸軍第四師団司令部建物に使われたということであります。

 綿業会館は東洋紡の専務のご遺族から100万円が寄せられ、綿業倶楽部の必要性を訴えた故人の遺志に賛同した人達から寄付が集まって150万円で作られております。
世界恐慌の不況の中、市民は惜しげも無く浄財を出したのであります。

 震度7でもびくともしない中央電気倶楽部。こちらは中央、というネーミングに大阪人の真骨頂を見るのであります。大阪電気倶楽部ならごく、当たり前でしょう。近畿電気倶楽部なら、少しマシでしょうか。中央、と付けたことで、大阪の気宇壮大さ、気概を知るのであります。ここは、日本の中央である。名は体を表すと言いますが、この名建築から当時の気概を汲み取っていただきたいものであります。

 さて、苦境の中の京阪はどうか。社史を紐解くと、昭和5年に6分減配しています。7年には無配転落であります。こうした中、電車の制動技術の訓練を重ねたり蓄電池を開発して夜間電力を蓄電して朝ラッシュ時に送電するなどコストを下げるなど涙ぐましい努力をしております。今では当たり前になっている回生制動車両ですが、これは京阪が昭和8年に発明したものであります。

 土地の値段は下落する一方でした。電車のお客様も減り続けました。そこで、沿線に学校を複数誘致したり成田山を勧請したりと、売れなくなった社有地を活用して乗客増加に努力しております。将来を見据えたのであります。正に社運挽回の必死の努力でしたが、報われたのは昭和10年のことであります。つまり、復配した訳であります。無配から3年、減配からは5年を要しております。こんな苦難の時代で京阪はもがき苦しんだ訳ですが、将来を展望した精神の発露が見られるのであります。

 二つだけ、ご紹介しましょう。一つは、京阪自動車株式会社を買収していることです。昭和2年のことです。社史を読むと、大正の終り頃からの慢性化した不況のなかでしたが、日本も小口から小口の利便性が受けて自動車の時代が来ておりました。道路の発達に自動車輸送の大量化で、鉄道は将来性を見出せないという理由で当社の英国債募集が不首尾に終わったほどであります。それでは、というので、京阪は伏見桃山と桃山御陵を路線とするバス会社を傘下に治めたのであります。現在の京阪バスでありますが、将来への見通しがキチンとできていたということでありましょう。

 いま一つは翌年、つまり昭和3年に設立した名古屋急行電鉄が大津市から名古屋市までの路線を出願したことです。免許はおりましたが、さすがに打ち続く不況期
ですから、出資が集まらず、頓挫しております。

 しかし、これも困難な中にも関わらず、将来の布石を打とうとした先達の気概にはただ頭が下がるのみであります。このように、自由で進取的な企業精神が京阪の歴史にもあったことを知ると、勇気百倍であります。私たちは社史から学ぶことができるのであります。