2012年(平成24年)10月1日(月) 大阪経済大学80周年記念講演
「大阪を元気にするために」
さて、いま、日本はどんな状況にあるのでしょうか。高度経済成長時代が青春期だった私から見れば、今は閉塞感に満ち満ちて、展望のない状況にあるように思われます。
戦後の荒廃した時代に育ったものの、中学生だった昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と記述されたように戦後から10年で経済の復興を成し遂げ、やがて高度経済成長時代を迎えた時代に少年期、青年期を生きた人生を振り返る時、そこにあるのは、汗して働く、或いは努力すれば報われるという、至極簡単にして明瞭な人生観でありました。
その時期、貴重な労働力から金の卵ともてはやされ、地方から集団就職で幼い中学生たちが東京や大阪にやって製造業を支える働き手となりました。日本全体が右肩上がりの成長で、当然大阪も工業、商業、金融などが発展し、膨張した大阪は都市圏を拡大させ、働き手の住まいも郊外へ郊外へと拡がっていきました。郊外と都心部を結ぶ鉄道会社の使命は、如何に膨れ上がるお客様を安全に迅速に、正確に輸送するかにありました。つまり経営上の課題は、大混雑解消のための輸送力増強投資でありました。
京阪で言えば、昭和38年、ビジネス街である淀屋橋までの地下延長線がその一例であります。会社の身の丈を越える投資でしたが、それを実行させたのは産業を支えるのは都市鉄道事業者であるとの強い使命感でありました。
一方で折からの高度成長経済は不動産価格の上昇をもたらし、沿線開発としての住宅団地経営が鉄道事業と並んで鉄道会社の主たる事業となりました。住宅団地の造成のために仕入れた土地は毎年値上がりして含み益をもたらしますから、少しずつ製品土地として売却すれば利益が確実に出るという含み益依存経営が鉄道会社のビジネスモデルとなりました。しかし、バブルの崩壊と長い平成不況の中で地価は下落し続け、これに国際的な会計制度の変更があり、不動産含み益依存経営は破綻、逆に鉄道会社の大きな重みとなりました。
私は良い時期の鉄道会社にたまたま就職して悪い時期が継続している平成不況の平成13年に社長となり大変苦労いたしましたから、鉄道会社のビジネスモデルを通して、大阪関西の繁栄と衰退について、何がしかを語ることができるという訳であります。