佐藤会頭の眼~講演録
Chairman’s Eye with you

2015年7月6日(月) 大阪大学豊中キャンパス

「ひらパーから関西を考える」

 ひらかたパークも大人気でした。宣伝課は事業部にあって、ひらかたパークも事業部にあったものですからひらかたパークの宣伝はもちろんのこと、同じ部ですから土日祝日はひらかたパークの応援によく駆り出されました。

 また、ひらかたパークの催事の企画も担当したものです。菊人形はNHK大河ドラマからテーマを選ぶことが多く、私が宣伝係長の時は司馬遼太郎の「火神」でした。昭和52年秋のことです。菊人形の場面のキャプションも担当しましたし、資料館を併設して、萩や長府、下関の美術館、博物館から貴重な史料をお借りして展示しました。

P010_s1.jpg 1日7万人はその時の数字です。翌年の「太閤秀吉」、春興行の「日本一フェア」も担当しました。この頃のテレビCMはフィルムからビデオに変わりつつある時で、映像に奥行きはあるが編集に時間を要するフィルム、まったく逆のビデオのどちらが良いか、侃々諤々の議論をしたことを思い出しますが、これも菊人形の魅力を如何に早く、そしてダイナミックにお伝えできるか、腐心したからであります。

 高度成長経済下では、この国の向かう先は明確でした。如何に国民一人一人が豊かになるか。その一点で国も国民もベクトルが合っていました。NHK大河ドラマが人気であったのは国民が夢を描き、勇気付けられるテーマだったからであり、ひらかたパーク大菊人形はこれに便乗しました。

 菊人形展で最も入場者が多かったのは、昭和49年の「勝海舟」でした。849千人でした。私が関わった「花神」は700千人、「太閤秀吉」は699千人でした。年間では「勝海舟」の年が1602千人、「花神」の年は1416千人。何と、年間入場者の半数が秋興行です。この頃がピークでした。以降、下降線をたどり平成17年の最後の菊人形展「義経」は最後の菊人形展を見る人で最盛期並みの693千人、年間入場者は1509千人でしたが、前年の「新選組」は354千人、年間1210千人で、菊人形展割合は30パーセント未満でした。菊人形展の人気離散は、菊人形展のテーマとなった大河ドラマを一家がテレビの前で釘付けとなる時代ではなくなったことと無関係ではないと思われます。

 皆さん方は経験していませんが、右肩上がりの経済では一億総中流、格差はなくみんなが幸せだったと言って良いかと思います。国民はテレビで家庭団欒、所得も向上して文明の利器のありがたさを味わっていたものです。ひらかたパークも遊戯機具を盛んに増設し、来園者の期待に応えました。

 花の万博が鶴見緑地で開催されたのは平成2年でした。大型観覧車など遊戯機具が人気でした。豊かさが実現してレジヤーも多様化し、遊園事業はワンノブゼムになりつつありましたが、花博で遊園地ブームが再び到来した感がしました。