佐藤会頭の眼~講演録
Chairman’s Eye with you

2015年7月6日(月) 大阪大学豊中キャンパス

「ひらパーから関西を考える」

 さて、大阪は大正の終わりから昭和の初めにかけて、大大阪と言われました。幕末に衰退した大阪は、明治になって綿紡績中心に産業を興して復活しました。明治30年には市域を拡げて築港を設け、貿易も伸ばしました。その発展の頂点が大大阪です。大正14年、大阪は初めて大大阪と呼ばれました。この年、当時の市長である関一氏は西成、東成両郡を編入して市域を拡大しました。人口は世界で第6位、文字通りの大大阪でした。

 昭和に入り、やがて日本は大不況に突入するのですが、大阪はシビックプライドが横溢しておりました。今の大阪城は昭和6年に市民の浄財で完成しました。寄付は150万円も集まり、陸軍第4師団司令部庁舎も合わせて建設されています。このほか、国の重要文化財に指定された名建築・綿業会館も昭和6年の竣工です。東洋紡の専務の遺志による寄付を基に作られました。昭和12年に御堂筋が完成しますが、生みの親である当時の市長・関一氏が100年先を見据えたと言われる、この気宇壮大な街路は、完成まで11年の歳月を要しました。11年前は昭和元年です。大大阪の時代のスケールの大きな発想と計画だったと言えます。

 第一次世界大戦は大正3年に勃発、日本も大戦景気に沸きましたが、昭和4年に世界恐慌、翌年の昭和5年には昭和恐慌が日本を襲いました。その前、大正12年は関東大震災が起きています。我が国の社会経済が大変不安定なこの時期に幾多の困難があったでしょうに御堂筋を完成させ、大阪城復元に市民がこぞって寄付をするーこうした気概は当時の大阪人の真骨頂と言えるかもしれません。そのマインドは京阪社内にも満ち満ちていたものと思います。先に申しましが、大正14年の本格的な菊人形への取り組み、そして昭和2年の京阪単独での遊園事業へと舵を切ったことがそれを物語っている、と言えないでしょうか。