佐藤会頭の眼~講演録
Chairman’s Eye with you

2015年7月6日(月) 大阪大学豊中キャンパス

「ひらパーから関西を考える」

 ご承知のように、この後日本は暗い時代へと移っていきます。昭和12年日中戦争勃発、昭和16年太平洋戦争開戦へと突き進んでいきます。菊人形のテーマは、支那事変聖戦忠勇武烈、奉祝二千六百年、大東亜戦争菊人形、戦力増強決戦菊人形など国民を鼓舞するものばかりです。春の霧島人形も、建国絵巻、米英撃滅決戦花人形など勇ましいものばかり。

P006_s1.jpg 昭和18年の秋のひらかた大菊人形が終わると、翌年遊園地は食糧増産のため農地となります。菊人形館も解体され、鉄骨などが軍需資材として供出されました。戦時体制です。もちろん、ひらかたパークは閉鎖です。菊の一部が千里山に移されていたのが幸いでした。戦争が終わった翌年の昭和21年「大阪名物年中行事ひらかた菊人形復活・千里山菊人形」と題して、菊人形が千里山遊園で開催されました。続いて翌年も翌々年も千里山遊園で開催されました。

 千里山遊園は現在関大のキャンパスになっていますが、どうして京阪電車が千里山かというと、昭和18年に戦時体制のため国策として京阪と阪急は合併して、京阪神急行となっていたからであります。京阪が阪急から分離独立したのは昭和24年12月のことです。この年、ひらかた大菊人形を枚方に戻すこととなりました。

 しかし、畑に転用された遊園地を元に戻すには時間がかかります。香里園成田山不動尊大阪別院前に菊人形館を建てることとなりました。これに対して枚方市は由々しきことだと緊急市会を開き、菊人形を枚方遊園跡地に誘致することを決議します。菊人形は枚方に戻ることになりました。けれどもそう簡単ではありません。農地となった遊園地を元に戻すには農地調整法に抵触します。そこで、都市計画法による公園の指定を受けて菊人形館は公民館に準じた文化会館として許可を受けることにし、昭和24年5月に文化会館の建設工事と公園造成に着手しました。文化会館は、何と京都大久保飛行場から移管した格納庫でした。

P006_s2.jpg 私は若い時、応援でひらかたパーク菊人形館の長蛇の列の入場整理をしたことがあります。土日に1日7万人を超える入場者があった、菊人形が大人気の頃です。「この建物は、元飛行機の格納庫だった」と先輩が教えてくれたことを覚えております。

 面積も広く天井も高い格納庫は大菊人形展にうってつけで、スロープで3階建ての高さまで立体的に展開する菊人形の場面は実に豪華絢爛でした。終了後の館内のむせるような菊の香りはまだ残っています。都市計画法による公園に指定されたことで、ひらかたパークは「ひらかた公園」という名称となります。冒頭申し上げた「公園」は、そういう事情によるものであります。

 さて「もはや戦後ではない」と言われたのは、昭和31年のことです。経済白書にそう記述され、当時流行語になりました。京阪電車でも、この年御殿山でテレビ付き住宅を分譲販売しました。テレビカーを走らせたのは昭和29年のことで、文明の利器の登場により、もはや戦後ではないと人々は実感したはずです。

 また昭和30年には枚方公園に東洋一の規模のバラ園が完成、昭和32年の枚方公園の分譲住宅はバラ園付きでした。戦後の荒廃から抜け出し、余裕が生まれ、人々に趣味を楽しむ風潮が出てきたことを事業として上手くとらえたと言えましょう。

 菊人形のテーマも、古今演劇名舞台、西遊記孫悟空、新版かぐや姫といった娯楽性のあるものでした。大衆迎合は商売のコツでしょうが、良く言えば流行に敏感。ノンビリしたのが京阪の風土だと思うのですが、スバシッコイところもあります。