大阪商工会議所ビル前に、初代会頭五代友厚の銅像が建っている。
この五代の人物と業績を知る人は、今日大阪でもごく少ない。
五代こそは大阪の育ての親であり、忘れがたい大阪の恩人である。
五代友厚は、1836年2月(天保6年12月)鹿児島に生まれ、
幼少よりその才ゆえに藩主より才助の名を賜った。
青年となり、長崎海軍伝習所でオランダ海軍士官より航海、砲術、測量、数学などを学び、
勝海舟、グラバーなど様々な人たちと藩を超えての交友を得た。
後に、欧州に留学。神戸事件、堺事件と続く外国人殺傷事件の解決に奔走し、
明治元年外国事務局判事として大阪在勤となった。
欧州留学して外 国事情にあかるいことから、明治元年外国事務局判事として大阪在勤となった。
これが大阪とかかわる第一歩であった。
五代はまもなく官を辞し、民間に投じ、大阪の退勢ばん回に努力した。
五代が自ら起こした事業、設立に関与した会社の主なものは 別記のとおりである。
東の渋沢栄一と並び称される五代が49才の若さで亡くなったことは、
大阪にとってまことに不幸であった。
遺言で大阪の土となった。墓は阿倍野斉場にある。
当時、街のおかみさん連中までが、「五代はんは大阪の恩人や」と語りついで、その死を悼んだ。
(参考:「大阪商工会議所100年の歩み」)