佐藤会頭の眼~講演録
Chairman’s Eye with you

2012年(平成24年)10月1日(月) 大阪経済大学80周年記念講演

「大阪を元気にするために」

 どうして大阪は復活したのか。商業の都市から商工業の都市へと転換に成功したからであります。明治3年に設置された大阪砲兵工廠と大阪造幣寮が次第に鉄鋼、機械などの産業集積をもたらすようになりました。

 明治維新後、西南戦争を経て国土は治安を取り戻し、新しい産業が起ってきました。紡績業です。特に大阪に綿糸紡績業が集まってまいりました。明治15年、日本初の本格的な紡績会社である大阪紡績が誕生しています。今の東洋紡績ですが、 京阪電鉄と同じ、創立者は渋沢栄一です。

 因みに京阪電鉄は明治39年創立です。また、これより早く南海電気鉄道は明治18年に営業開始 、阪神電気鉄道は同38年に開業するなど明治の中後期から鉄道網が整備されていきます。

 明治30年頃大阪市は西成郡の一部を合併して海に出ます。そして築港の工事を開始しました。産業が発達して輸出入のための貨物港が必要だったからです。この町村合併により人口は75万人に増加しておりますが、翌年には特別市制から自治市制に変わり、大阪は大活躍期に相応しい自治の体制も整いました。

 この築港の建設に学ぶことは、大阪市の年間予算の何と20倍とか言われる巨額プロジェクトだったことです。第一次築港工事の完成は昭和3年のことです。先を見越した大インフラ整備でありました。都市経営への壮大なビジョン、洞察力、意志の強さを学びたいものです。実際、強い信念に裏付けられたビジョンは身を結び、自治市政の下、大大阪と言われる時代を迎える訳です。それは大正14年のことです。この年、西成、東成両郡の残りを合併して、大阪は200万人の大都市となりました。

 貨物港としての築港の実績はと言うと、大正11年には既に貨物屯数が全国第一位となります。その内容が凄い。輸出入価額でみれば、輸出超過となっております。原材料を多く仕入れ、付加価値を付けて精製品として輸出していたからであります。工業製品の生産額は全国の約2割を占めておりました。現在はと言いますと、僅か5.4%であります。2割を3割に持っていくのなら難しいけど、これなら努力にしがいがある、そんな低さですね。

 もう一つ、この大大阪の時代に学びたいのは、大阪が商工業の都市として発展していくためには市民の住み良い都市でもなければならないという考えで都市計画を実行したことです。体系的な街路整備、電車の敷設そして商業地域、工業地域、住居地域の地域指定も行いました。当時の市長と言えば、「関 一」であります。その関市長は御堂筋や地下鉄を作って先程の都市計画を具体的に実行したことで有名です。良きリーダーを戴いて、大阪は東洋のマンチェスターか東洋のベニスか、と呼ばれるほど繁栄の時を創り上げました。