佐藤会頭の眼~講演録
Chairman’s Eye with you

2015年7月6日(月) 大阪大学豊中キャンパス

「ひらパーから関西を考える」

 日本経済は戦後の復興経て昭和30年代後半から高度成長経済まっしぐらの時代を歩みますが、大阪も繊維、金融、小売り、家電などが発展し、地方から若い働き手が集まってきました。そして、都心への人口集中により郊外へと住宅地が広がっていきました。淀屋橋延長線は京阪電車の沿線を発展させました。くずはローズタウンのまちづくりが代表例でしょう。住宅公団による香里住宅団地の建設も同じであります。

 経済が発展して人が集まり、まちが膨張して郊外が発展する。右肩上がりの経済がもたらす大阪・関西の躍進の時代の到来です。私鉄経営は輸送力増強が最大の使命となります。京阪電車の混雑率は200パーセント。ぎゅうぎゅう詰めを解消しようと経営資源を輸送力増強に振り向けます。複々線の建設、5扉車、長編成列車投入などあの手この手でした。

 人口減少時代に入っている現在、またデフレ経済が長く続いて経済が沈滞した平成生まれの皆さん方には想像できないのではないでしょうか。今では電車はガラガラ、通勤通学電車でも新聞を読めるのではないでしょうか。輸送力増強の時代、最混雑通勤電車の中で新聞を読めるようにしたい、というのが私鉄の経営目標でした。様変わりですね。もっとも、当節は新聞を読む人も少なくなっているかもしれませんが。

 郊外住宅地が次々と誕生した高度成長経済期、家庭は一家団欒の時代でした。皆、三種の神器が憧れでした。白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機のことです。三種の神器の普及により、主婦に時間が生まれ、いっそう一家で余暇を楽しむことができるようになりました。ごく簡単に余暇が楽しめるというので、遊園地が人気でした。ひらかたパークにはおじいちゃん、おばあちゃんに手を引かれた孫の姿がよく見られました。

 私がひらかたパーク1日7万人の入場者を目の当たりにしたのは、まさに高度成長経済下のさらに生活が豊かになった頃でした。当時は一億総中流時代と言われていました。
大阪・関西が活況だったのは昭和45年の千里で開かれた万国博覧会の時だったと言われています。

 歴史は過去を振り返って分かるものです。万博が終わって絶頂期が過ぎた、と実感する訳ではありません。絶頂期がしばらく続き、そして徐々に下降線をたどるものでしょうから、その時代に生きている者は変化には気付かずに相変わらず絶頂期に自分はいる、と思うものです。私が宣伝係長であったのは昭和51年頃だったと思いますが、日本は石油ショックを乗り越え、再び活力を取り戻しました。