2015年7月6日(月) 大阪大学豊中キャンパス
「ひらパーから関西を考える」
遊園は菊人形館と共に枚方町に移されることとなりました。枚方の菊人形は、明治45年から大正7年まで続きました。菊人形の請負は、開業時の名古屋黄花園から岐阜菊楽園に変わりましたが、契約面で折り合えず、枚方の菊人形は大正7年で打ち切られることになりました。折から、宇治の料亭菊屋万碧楼から宇治での開催の要望があり、大正11年まで宇治で開催されています。だが地の利に恵まれないことから、菊人形館は毎年欠損となり、大正11年に菊人形館が焼失したこともあり、宇治での開催は終わりとなります。
こうしてみると菊人形は生業とする事業者がいて、京阪は運営、営業を委託する方式を採用していたことが分かります。そしてまた、菊人形の事業者は数多くあることから、菊人形が当時の人々にいかに親しまれていたということが分かります。
菊人形ばかりお話しする訳にはまいりませんが、もう少しお付き合い下さい。宇治での菊人形が終わりましたが、今度は東京相撲協会の年寄、春日野から枚方での復活の申し出がありました。春日野は堺大浜で菊人形を興行していたのですが、建物を解体して菊人形館を船で運び、枚方で催すこととなりました。
大正12年の春に霧島人形が催され、翌年の春にも霧島人形、そして秋に菊人形が復活しました。大正14年には菊人形だけに的を絞るとともに、園内にボート池や滝、桜、桃、ツツジなど植え、飛行塔、回転桶、ブランコなど遊戯施設を充実して遊園地としての形を整えました。ところが赤字の菊人形経営だったため、菊人形の興行師は遊園から撤退することになりました。そこで昭和2年、京阪電車は枚方遊園地一切を譲り受け、直営としました。もちろん、菊人形も引き継ぎました。