大阪商工会議所 HOME
(以下の記載は、平成10年度末現在の内容のため、現在では終了している事業があります)

戦後の大阪商工会議所(3)-3
昭和54年〜平成10年

Chapter:3 都市づくり文化振興 地域間交流の促進

 本会議所は、諸機能の東京一極集中が進む中で、大阪が21世紀に大きく飛躍するためには、ハード、ソフト、ホスピタリティの三拍子揃った都市づくりを進め、人・物・情報が頻繁に行き来する国内外に開かれた交流都市を目指さなければならないとの観点から、多様な活動を展開してきた。具体的には、関西国際空港の建設促進をはじめとする交流基盤の整備、国際花と緑の博覧会や大阪オリンピックの招致など大規模イベントの開催協力、全国初の試みである大阪コミュニティ財団やアメニティ・ソサエティの設立、さらにば環瀬戸内地域との交流強化など多岐にわたっている。

■目次
  1. 大阪21世紀計画の推進とまちづくりビジョンの策定

  2. 交流施設の整備促進

  3. 大規模イベント開催への協力

  4. ファッション・デザインの振興

  5. 文化・観光の振興

  6. アメニティ・ホスピタリティの向上

  7. 地域間交流の推進


1 - 大阪21世紀計画の推進とまちづくりビジョンの策定

●21世紹にむけたまちづくり

 大阪では、昭和58年が大阪城築城以来ちょうど400年にあたることから、これを機に市民、産業界、各種団体などがー体となって21世紀までの長期にわたって広範・多彩な行事、事業を繰り広げ、新しいまちづくりを進めようと、自由・活力・創造・大阪2001を統一テーマとする「大阪21世紀計画」がスタートした。本会議所は57年、大阪府、大阪市、関経連、日本万国博覧会記念協会とともに、計画にかかわる総合プログラムの策定と個別事業間の連絡調整を行う母体として(財)大阪21世紀協会の設立準備に努めた。そして、21世紀計画の皮切りとして、58年10月から11月にかけて大阪城博覧会、大阪世界帆船まつり、御堂筋パレードなど「大阪築城400年まつり」の実施に協力した。
 このように、21世紀に向けて大阪のまちづくりへの関心が高まる中、本会議所は、行政や経済団体などが長期的な視点から都市づくりに取り組む際の指針として、59年に「21世紀大阪のグランドプラン」を、63年には「大阪を世界の新文化ビジネス首都に」をまとめた。そして、大阪の将来像として、都市活力の旺盛なまち、世界に開かれた交流拠点としてのまち、住んで楽しく訪れて得をするまち、情報と文化を発信するまち、アイデンティティの確立したまちの実現をあげ、難波宮・大阪城を中心とする歴史的遺産の復元・活用、現代版「ナニワ塾」(タウン・カレッジ)の開設、市内の拠点整備などを提案した。また、平成元年には、関西経済活性化方策について検討を重ね、活性化に向けてむプロジェクトの推進を提言した。
 6年には「大阪の都市格向上を目指して」をまとめ、「中小企業が輝き、新産業の誕生が相次ぐ都市」「人びとの息吹きを感じ、知的興奮を覚える都市」「内外に開かれ、とくにアジア・太平洋地域との共栄を重視する都市」の3つを柱に、本会議所が取り組むべき事業、行政等に対する要望をそれぞれ20項目ずつ提案した。このうち、本会議所が取り組むべき事業として提起された新規開業支援、博物館・美術館の整備促進、APECとの連携強化などの20項目については、本会議所事業の中期的方針として掲げ、その具体化に努めている。

2 - 交流施設の整備促進

●関西国際空港の建設


 関西にとっての宿願であった関西国際空港は、昭和43年の運輸省による調査開始以来四半世紀の歳月を経て、平成6年9月に開港した。この間、本会議所は、昭和54年の関西23経済団体などによる「関西新国際空港建設促進協議会」(代表理事=関経連会長、大商会頭)の設立などを皮切りに、空港建設に中心的な役割を果たした。その後、56年に運輸省から地元3府県に対して「空港計画案」「環境影響評価案」「地域整備の考え方」のいわゆる3点セットが示され、地元の合意を得た。そして、59年度政府予算で事業主体として国、地方自治体、民間が出資する関西国際空港(株)の設立が認められた(59年11月に設立)。当初の事業費は約1兆円で、出資12%(国8%、自治体と民間各2%)、借入金88%とし、借入金8800億円のうち1800億円を国からの無利子融資と、自治体と民間からの長期低利融資で賄うとされた。そこで、本会議所は関経連などとともに関西国際空港出資促進委員会を設立し、民間出資分200憶円について全国の企業に出資依頼を行った。その結果、約800社から480億円強の出資希望が寄せられた。こうした多くの出資申込みなどもあって、当初スキームの長期低利融資が出資に振り替えられ、平成元年度に事業費に占める出資金比率が30%となり、国が20%、自治体と民間が各5%を出資することになった。建設工事は昭和62年から始まったが、予想を上回る沈下対策や複合管理棟の建設などにより事業費は1兆5000億円余に増加した。
 他方、本会議所は、開港を控えた平成4年から5年にかけて国内外にポートセールス団を派遣するとともに、6年には会員企業の協力を得て、東京や大阪で開港をPRするための看板や懸垂幕の掲出、ポスター・ステッカーの送付など多彩な「関西国際空港開港PRキャンペーン」を展開した。
 開港後の運営状況をみると、国際線は開港当初こそ週338便にとどまっていたが、その後順調に増加し、現在は週653便が世界35ヵ国・地域の75都市と結ばれている。この中には、ヨハネスブルク(南アフリカ)、ヤンゴン (ミヤンマー)、ウランバートル (モンゴル)、バンダルスリブガワン (プルネイ)、ホーチミン(ベトナム)、カトマンズ(ネパール)、ランカウィ (マレーシア)、大邱(韓国)といったわが国では関西国際空港とのみ結ばれている都市も含まれている。一方、国内線は1日70便が就航している。
 しかし、関西国際空港が名実ともにアジア太平洋地域のハブ空港としての機能を果たすためには、滑走路を3本に増やす全体構想の実現が不可欠であることから、元年に地元自治体と経済団体で関西国際空港全体構想早期実現期成会(代表理事=大阪府知事、大商会頭ら)を結成し、東京でのPR活動や関係省庁への要望活動を繰り返し行った。その後、全体構想の推進に向けた地元の合意形成をはかるため、5年に関西国際空港全体構想推進協議会(会長=関経連会長、代表委員=大阪府知事、大商会頭ら)を設立し、着工の前提となるボーリング調査費などの地元負担を決定した。本会議所は関経連とともに民間負担の取りまとめを行った。そして、7年に推進協議会の代表委員会が開かれ、全体構想2期事業については空港施設(上物)の整備を関西国際空港(株)が行い、用地造成は公的主体が行う、上下主体分離方式で進めることで地元として合意をみた。こうした結果、同年まとめられた国の第7次空港整備5か年計画の中間報告で関西国際空港2期計画が最優先課題として盛り込まれるとともに、8年度政府予算で実施設計調査費が認められ、平成19年の供用開始を目指すことになった。そこで、在阪経済5団体は、経済界として上物施設について420億円を限度として負担することを決め、8年「関西国際空港2期事業民間出資促進委員会」を設置、出資依頼スキームをとりまとめた。そして、9年に大阪と東京で事業説明会を開催した後、各社への出資依頼を行い、目標額を達成した。

●リニアモーターカー中央新幹線の建設促進


 本会議所では、首都機能の分散促進、輸送力が飽和状態にある東海道新幹線の代替、不測の事態に対する危険分散などの見地から、首都圏、中部圏、近畿圏を約1時間で結ぶリニア中央新幹線の建設促進運動を展開した。すなわち、昭和63年にリニアモーターカー中央新幹線懇談会(会長=大西正文・副会頭)を組織し、建設に伴うインパクト、実現に向けての課題などを探るとともに、平成元年度政府予算の編成に際して大阪府、大阪市とともに同新幹線の早期実現を要望した。元年には、大阪・名古屋両商工会議所、ならびに大阪府・市・本会議所のそれぞれ連名で、中央新幹線のルートとみられる山梨県でのリニア新実験線の建設とそのための予算措置を関係当局に要望した。さらに、京阪神三商工会議所懇談会でリニア新実験線の建設予算確保に全力をあげることを申し合わせたほか、大阪・名古屋・東京3商工会議所広域交通問題懇談会を開催し、共同して取り組むことを決定した。こうした結果、山梨県に新実験線の建設が決まり、2年度以降実験線の建設と技術開発の予算措置が認められた。新実験線は2年11月から建設が始まり、その先行区間(18.4Km)における走行実験が9年4月からスタートした。そして、同年12月には、有人走行および無人走行による世界記録である時速531Kmと同550Kmを達成した。今後、11年度までに実用化に向けた技術上のめどをたてることになっている。

●マイドームおおさかの建設

 本会議所では、昭和53年の創立100周年の記念事業の一つとして大阪産業貿易センター(仮称)の建設を提唱した。その後、大阪府、大阪市とともに検討を重ねた結果、中小企業の振興をはかる中核施設として展示・商談・交流機能を備えた産業振興センター(仮称)を本会議所の隣接地に建設することを決め、59年に建設・運営主体となる(財)大阪中央地場産業振興センターを設立した。本会議所では企画委員会で施設機能を検討、提案するとともに、建設総事業費100億円のうち経済界からの拠出10億円の募金を行った。60年に起工式が行われ、61年には当センターの愛称を公募の結果「マイドームおおさか」に決め、62年9月にオープンした。建物は地上8階、地下3階で、1〜3階が多目的ホールを含む展示場、4〜6階が中小企業関連機関、7、8階が情報資料室、会議室などとなっている。
 マイドームおおさかは、隣接する本会議所、大阪コクサイホテルと連絡通路で結ばれ、展示・会議・宿泊の3つの機能を有するコンベンション・コンプレックスを形成しているのが特徴。毎年200件を越えるイベントが開催され、オープン以来の平均稼働率は83.6%と高率を誇っている。

●大阪コンベンション・ビューローの設置と大阪国際会議場の建設

 本会議所は、大阪経済の復興期である昭和26年に大阪府、大阪市とともにいち早く国際見本市会館を開設し、29年に全国に先駆けて日本国際見本市を開催した。翌年東京で開かれ、その後大阪と東京で交互に行われている。国際化をめざす大阪が21世紀に向けて飛躍するためには、大阪において内外の見本市・会議が数多く開催されるような魅力と機能を備えた都市づくりと各種イベントの誘致・創出の促進が不可欠である。そこで、本会議所は57年にコンベンションシティ推進委員会(委員長=上山善紀・常議員)を設置し、国際シンポジウム「国際会議都市・大阪の創造」の開催、大阪市内における会議・展示施設の紹介ガイドブックの刊行とともに、コンベンション・ビューローの設立の検討などを行った。そして、59年、大阪府・市などとともに、コンベンションなどの誘致活動と会議運営ノウハウの提供を行う「大阪コンベンション・ビューロー」を設立、会長に古川進・会頭が就任した。
 他方、大阪の新しいシンボルとなる世界第一級の国際会議場を建設するため、平成元年、大阪府、大阪市、本会議所、関経連のトップからなる大阪国際会議場建設推進協議会(会長=佐治敬三・会頭)が発足し、調査研究を進めた。そして、4年に「国際会議場の整備に向けて」の基本的考え方がまとまり、6年には「大阪国際会議場(仮称)基本計画」が決まった。建設地は大阪国際貿易センタービルの跡地を中心とした約1万平方メートルの敷地で、地下3階、地上12階の高さとなり、3000席の大会議場をはじめ、中小会議室、展示場などで構成されることになっている。8年には、事業推進方針として、(1)国際会議場の管理・運営は(株)大阪国際貿易センターに委託し、大阪コンベンション・ビューローを財団法人化して会議誘致・支援の中核組織としての役割を果たす、(2)建設主体である大阪府は平成12(2000)年春のオープンを目指し、8年12月に起工式を行う、(3)大阪市は国際会議場にふさわしい周辺道路の整備を進める、(4)経済界は施設の管理・運営支援のため、大阪府基金に15億円の寄付を行う、ことになった。そこで、本会議所と関経連は、大阪コンベンション・ビューローの財団法大化のための民間出損金1億円超および毎年の事業費となる会費4000万円超の確保、大阪府基金への15億円の募金活動を行った。

3 - 大規模イベント開催への協力

●国際花と緑の博覧会

 昭和45年の日本万国博覧会に次ぐ大阪で二度目の国際博である「国際花と緑の博覧会」(略称花の万博)が平成2年4月1日から183日間にわたって「自然と人類の共生」をテーマに、大阪・鶴見緑地で開かれた。本会議所は、誘致から閉幕まで成功に向けて全面的に協力した。具体的には、昭和60年大阪府、大阪市、在阪経済団体などとともに政府に対し「花と緑の国際博覧会の大阪開催に関する要望」を行ったのを皮切りに誘致活動を展開、同年9月に大阪開催の決定をみた。翌61年には(財)国際花と緑の国際博覧会協会が設立され、会長に稲山嘉寛・経団連会長、会長代行に佐治敬三・会頭が就任した。その後、本会議所は大阪府、大阪市とともに会場整備費など関連予算の確保を国に働きかける一方、海外要人への説明・PR、参加招請活動に努めた。とくに、平成元年には「国際花と緑の博覧会推進協力特別委員会」(委員長=安部川澄夫・副会頭)を設置し、会員企業に対して企業内での花の万博の広報担当の設置、広報誌への記事掲載、ポスター・リーフレットの配付、テレビCM・新聞雑誌の広告など広報・PRを呼びかけるほか、有人飛行船による21都府県でのPRキャラバン、事業所周辺の花飾り、プランターの設置運動などを展開した。
 花の万博は、海外から82ヵ国・55国際機関が出展参加し、予想を上回る2312万人の入場者を得て、成功裡に閉幕した。本会議所は、大阪府、大阪市とともに、会期中にあわせて84回に上る各国のナショナルデー、国際機関のスペシャルデーにおける式典での接遇活動のほか、各国政府賓客などを招いての歓迎レセプションを70回にわたって行った。

●2008年オリンピックの大阪招致

 平成7年、大阪市会は「第29回オリンピック競技大会の大阪招致宣言」を議決し、同年、地元自治体、市民団体、競技団体、経済団体などからなる大阪オリンピック招致推進会議が設立され、大西正文・会頭が会長に就任した。
 本会議所では、7年に「第29回オリンピック競技大会の大阪への招致推進の決議」を行ったほか、9年には大阪オリンピック招致推進特別委員会(委員長=稲畑勝雄・副会頭)を設置し、招致機運の盛り上げに努めた。この間、大阪オリンピック招致推進会議との共催で「アトランタ・オリンピック視察団」(団長=稲畑勝雄副会頭)を派遣し、オリンピックの招致や開催に果たした民間の役割などを学んだ。あわせて、地元経済界や市民の五輪招致に向けた熱意を示すため、署名活動の実施(約111万人)、私設応援団の結成の促進(約12万人、7600団体)に努めたほか、企業に対する懸垂幕、横断幕、ポスターの掲出の呼びかけなどを行った。また、「大阪オリンピック招致推進フォーラム in TOKYO」を開き、大西正文・会頭や磯村隆文・大阪市長らが国会議員、政府関係者などに大阪五輪招致への協力を訴えた。さらに、8月13日に開催された「第29回オリンピック競技大会立候補都市選定会議」では、大西会頭がプレゼンターの一人として経済界・市民の招致機運の盛り上がりを強調した。そして、投票の結果、大阪市29票、横浜市17票で大阪市が国内候補都市に決定した。今後、12年に国際オリンピック委員会に立候補し、13年の同委員会総会で開催都市が決定する。

4 - ファッション・デザインの振興

●ファッション・イベントの開催

 京阪神の3商工会議所は、昭和58年に京阪神地域のファッション産業の振興と各地で開催されているファッション・イベントの相乗効果の発揮を狙いとして、毎年10〜11月を「京阪神ファッション・マンス」と設定し、63年まで一体的なPR、シンポジウムの開催、関連事業の実施などに努めた。
 また、58年には、大阪のファッション産業の国際的地位の向上を目指して、大阪国際ファッション・フェスティバル(大阪通産局、大阪府、大阪市、本会議所、イースタンストッフ・トータルファッション協会などで開催委員会を組織)が始まった。国際ファッションデザインコンテスト、国際ファッションシンポジウム、国際ファッションショー、第6回イースタンストッフ・トータルファッション展など、多彩な催しが行われ、入場者数は10万人を超えた。なお、主催団体の一つであるイースタンストッフ・トータルファッション協会は、61年に(社)トータルファッション協会に衣替えし、このファッション・フェスティバルは63年まで開催された。
 62年には、「世界のひのき舞台で活躍するファッションデザイナーの輩出」と「世界に向けてのファッション情報の発信基地」を目指して、大阪コレクションが始まった。昨年で11回目を迎えたが、この間、新人ジョイントステージの国内外からの公募などにより、延べ183入が作品を発表した。

●ワールド・ファッション・フェア




平成元年には、わが国初の国際的総合ファッション・イベントであるワールド・ファッション・フェア(WFF89)を開催した。本会議所は、大阪、京都、神戸の3府県・市・商工会議所とともに「ワールド・ファッション・フェア推進協議会」(会長=佐治敬三・会頭)を組織し、精力的に準備を進めた。WFF89は、4月からスタートし、大阪、京都・神戸を舞台に国際行事、都市行事、協賛行事あわせて78のイベントを繰り広げ、11月に総参加者数252万人を記録して終了した。イベントの一つ、「ワールド・ファッション・コレクション」には世界の5大コレクションであるパリ、ミラノ、ニユーヨーク、ロンドン、東京と、躍進著しいスペインから代表的なデザイナーが参加し、また、5日間にわたって開かれた「ワールド・ファッション・トレード・フェア」には35カ国・地域、1国際機関から1252企業・団体(うち海外558)が参加し、繊維素材、アパレル、関連機器などを出展。バイヤーは12万人を数え、活発な商談が行われた。
 こうしたWFFの成果を継承し、その後も(社)トータルファッション協会が中心となって「ワールド・ファッション・トレード・フェア」と「ワールド・ファッション・コレクション」を柱としたトータルファッション・フェアを開催している。

●デザイン振興

 大阪では、世界的規模のデザイン・イベントを通じ、デザイン界に刺激を与えるのみならず、生活文化産業の発展に寄与しようと、昭和58年から1年おきに「国際デザイン・フェスティバル」を開催している。その事業主体として56年に(財)国際デザイン交流協会(会長=古川進・会頭)を設立した。国際デザイン・フェスティバルは、国際デザイン・コンペティション、国際デザイン・アオード、国際デザイン展に分かれ、その一つである国際デザイン・コンペティションには毎回50〜60ヵ国から1000点を超える応募がある。

5 - 文化・観光の振興

●国立文楽劇場の建設促進

 人形浄瑠璃文楽はわが国の優れた伝統芸能の一つであるが、文楽発祥の地である大阪に専用劇場がなく、後継者の養成や技芸員の研修に支障を来していた。そこで、本会議所は昭和49年以降、大阪府、大阪市と一丸となって国に対し大阪国立劇場(仮称)の設立を繰り返し要望してきた,その結果、54年度に国立文楽劇場基本設計費、1年度に実施設計費と施設整備費、55年度に設立準備費と施設整備費がそれぞれ計上され、56年に着工の運びとなった。総工費約65憶円を要したこの文楽劇場は、約800席のメインホールをけじめ、150人収容の稽古ホール、各種研修設備を完備し、59年1月に竣工した。


国立文楽劇場

●大阪コミュニティ財団設立

 本会議所は、企業の文化活動や社会貢献活動を支援するため、平成元年に「文化税制推進特別委員会」(委員長=小林公平・副会頭)を設置し、新しいタイプのコミュニティ財団の設立を検討、この面での先進国であるアメリカの財団の運営方法や組織、制度の現地調査などを行った。そして、3年に「大阪コミュニティ財団(仮称)設立構想」を発表するとともに、設立準備委員会を発足させた。その後、設立準備を進め、11月に通商産業省から認可を得て、わが国初のコミュニティ・ファンデーションである(財)大阪コミュニティ財団(会長=佐治敬三・会頭)が誕生した。コミュニティ財団は、多数の企業や個人などから拠出を受けた基金を一つの事務局が寄付者の意思を尊重し、かつ各基金の独自性を保持しつつ、助成、顕彰、奨学金の支給などの事業を実施するもので、基金に寄付者の希望する名を冠することができるのが大きな特徴である。10年3月現在の基金の設置数は65基金で、設立以来の寄付金累計額は9億2400万円に達し、助成実績は270件、1億5800万円となっている。

●企業家ミュージアム構想の推進

 本会議所は、平成2年以来「商業博物館(仮称)」構想の具体化を検討してきたが、大阪が育んできた旺盛な企業家精神を、次代を担う若者たちに伝える「大阪商工会議所企業家ミユージアム(仮称)」構想として再編、推進することになった。そこで、10年「大阪商工会議所企業家ミュージアム(仮称)開設推進特別委員会」(委員長=稲畑勝雄・副会頭)を設置し、(1)同ミュージアムは大阪を中心に活躍した数多くの企業家たちの企業家精神に富んだ事績などの展示と人材開発事業を主たる機能とする、(2)設置場所は大阪市が旧東区役所跡に建設する(仮称)大阪産業創造館」の地下1階とする、(3)西暦2000年秋の開設をめざす、などとする基本構想をまとめた。現在、本会議所創立120周年事業として、この基本的枠組みに即して実現に向けた具体的な検討を進めている。

●観光振興アクション・プログラム策定

 本会議所では、観光振興が都市活性化のための有効な手段であるとの観点から、平成8年、観光振興特別委員会(委員長=小林公平・副会頭)を設置し、アメリカ、ヨーロッパに視察調査団を派遣し、観光の魅力づくり、推進組織のあり方などを学ぶ一方、商工会議所らしい、実践的な、そして関西という広域的な視野にたったアクション・プログラムの検討を進めた。その結果を10年に、産業観光の振興、街の魅力の再発見、イメージアップ戦略、食に関するホスピタリティの高揚、外国ゆかりの地の紹介の5項目についての具体的提案と、中長期的な活動の方向を盛り込んだ「観光振興アクション・プログラム」としてまとめた。今後、本プログラムを実行に移すとともに、国内外への観光プロモーション活動、観光関連産業の振興、新しい観光魅力の創出、出会い・交流のための仕組みづくりなど中長期的な課題について検討を進めることにしている。

●文化振興のための各種事業

 まず、昭和50年から日本の三大祭の一つである天神祭の船渡御行事に対する協賛事業を行っている。本会議所は50年に、前年、資金難から中止に追い込まれた船渡御行事を復活しようと、会員企業に協賛金の拠出を募った。こうした産業界からの寄付もあって、船渡御が復活し、大阪中を活気に包む盛大な天神祭が再現した。その後も、本会議所会員による募金が行われ、大阪の伝統行事の保存・継承に一役買っている。
 また、終業後のひとときを音楽で楽しんでもらおうと、平成元年から「チェンバーコンサート」を開いているほか、9年には、大阪の5つのクラシック・コンサートホールの月間演奏プログラムを「OSAKAクラシック・コンサート・マンスリーガイド」(月刊)として発行している。

6 - アメニティ・ホスピタリティの向上

●違法駐車追放運動の展開

 大阪市内の道路交通事情が年々悪化していることから、本会議所では昭和60年度から違法駐車の追放を主目的として「道路を広く使おう」運動を始めた。そして、60年に常議員会で「マイカー通勤自粛に関する申し合わせ」を決議し、会員企業に協力を呼びかけた。62年には「違法路上駐車追放に向けて」との提言をまとめ、大阪府、大阪市、大阪府警などに提出するとともに、在阪経済5団体首脳会議で「マイカー通勤自粛」を申し合わせた。さらに、63年には産官学がスクラムを組み、具体的な駐車対策を研究・推進するため、(財)都市交通問題調査会が発足した。こうした中、大阪市は平成元年に駐車「非常事態」を宣言し、翌2年4月からは毎月20日を「ノーマイカーデー」と定め、車による通勤の自粛をオール大阪で取り組むことになった。本会議所では、機関紙などを通じ会員企業に対し周知徹底に努めた。また、3年からは大阪府警による「大阪クリア・ウェイ作戦」が始まった。こうした結果、都心部の幹線道路では、長時間駐車が減少するなどが改善の兆しがみられるようになった。
 本会議所は、大阪市内における交通混雑を一層緩和するため、6年から「道路スッキリ、イメージアップ作戦〜1企業1アクション運動」と銘打った交通対策キャンペーンを展開した。さらに、9年には個々の企業が都市交通問題の解消に向けて、自主的、具体的に取り組むための手引き書「大阪の交通環境改善に向けて〜企業の交通問題対策の手引き」をまとめ、企業に協力を呼びかけている。

●花・未来・OSAKAキャンペーン
●アメニティ・ソサエティの設置


 本会議所は、「国際花と緑の博覧会」の精神を受け継ぎ、大阪を花と緑にあふれ、アメニティに富んだ都市とするため、平成2年に大阪未来都市特別委員会(委員長=安部川澄夫・副会頭)を設置した。そして、3年から2年間にわたって「花・未来・OSAKA」キャンペーンを展開し、会員企業に自社事業所周辺の緑化や美化を呼びかけ、160社の参加を得た。また、4年に「大阪未来都市にふさわしい都心の創造へ〜企業市民による都市づくりへの提案」をとりまとめ、企業市民のまちづくりへの参画の一環として「アメニティ・ソサエティ」の設置などを提言した。この提言をフォローするため、アメニティ大阪特別委員会を設置し、翌5年には有志企業とともに「御堂筋アメニティ・ソサエティ」と「堺筋アメニティ・ソサエティ」の設立に努めた。さらに、新大阪北地区に「新大阪アメニティ・ソサエティ」が発足した。それぞれのアメニティ・ソサエティでは、各筋の過去と現在を比較した写真展の開催、始業前に事業所周辺を清掃するクリーンキャンペーンの実施、情報誌の発行などの活動を展開している。
 また、本会議所では、工場・事業所のみならず、広く大阪の緑化を積極的に推進するため、昭和49年に大阪緑化推進特別委員会を設置し、工場緑化相談の開設、セミナーの実施、苗本・花の種の配付、記念植樹、緑の羽根募金への協力などを行うほか、50年から「緑化貢献者表彰」をスタートさせた。緑化に貢献のあった事業所・団体・個人の表彰を行うもので、平成9年までにあわせて241企業・団体を表彰した。また、本会議所は4年に大阪市の扇町公園に大規模な植栽を行う「大阪の森づくり」を推進することを決め、4年度から10年度にかけて総額1億1000万円余を会員企業から寄付を募り、大阪市に寄贈した。10年秋にも記念植樹式を行う予定である。

●フレンドリーシティおおさかキャンペーンの展開

 本会議所は、関西国際空港の開港を目前に控えた平成6年8月、「世界の人々をあたたかく迎えましょう」を合言葉に「フレンドリーシティおおさか」キヤンペーンをスタートさせた。具体的には、JR大阪駅でのミニコンサートなどのキックオフ・イベントの開催、店頭での外国人の接客に役立つ下敷きスタイルの「まいどカード」や大阪を紹介する29ヵ国語版のリーフレット、外国語メニュー作成のためのガイドブックの作成・配付、フレンドリーシティおおさか大賞の公募、フレンドリーシティおおさかの集いなどを3年間にわたって展開した。

●OSAKA光のフェスティバル

 本会議所は、大阪における夜間の景観の向上の一環として、昭和62年より大阪21世紀協会とともに、企業や公共施設に対して、11月下旬から約1ヵ月間敷地内の樹木のイルミネーションによる装飾、建物のライトアップ、壁面での光のデコレーションなどを呼びかけている。平成8年からは、「ショーウィンドーコンクール」と一本化し、昼間はアート感覚いっぱいにドレスアップした「ショーウインドー」を、夜間は「OSAKA光のフェスティバル」を満喫してもらうことにしている。近年は企業、公共施設などあわせて150近い施設の参加を得、大阪の秋から冬にかけての風物詩として新しい観光要素のーつとなっている。

7 - 地域間交流の推進

平成元年、瀬戸内船上会議。佐治会頭の呼びかけで近畿・中国・四国・九州から47商工会議所首脳100人余と大阪・兵庫・和歌山・大分の4府県知事が参加した。
●瀬戸内地域との連携強化

 平成元年、瀬戸内海地域とこれらと密接な関係をもつ地域が連携し、幅広い協力関係を築き、多極分散型国土形成の先導役を担おうと、佐治敬三・会頭の呼びかけにより、西日本2府14県の商工会議所のトップなどが大阪湾をクルージングする客船に集い、瀬戸内船上会議を開いた。そして、21世紀における環瀬戸内圏のあるべき姿と地域整備の基本的方向を示すグランドビジョンの策定を決議した。翌2年の大分県別府湾上での第2回船上会議では、環瀬戸内圏の交流事業を検討、実施する組織として西日本2府14県(後に2府15県)の商工会議所からなる「環瀬戸内圏交流推進会議」(代表世話人=佐治敬三・会頭)の設置を決めた。その後、交流推進会議の主催で毎年「環瀬戸内圏財界セミナー」を開いているほか、4年には「訪スペイン使節団」を派遣し、リゾート・観光開発に関する先進地域の視察と経済交流の促進に努めた。
 また、3年には「環瀬戸内圏グランドビジョン」をとりまとめた。基本理念として「自立と活力」「個性と創造」「交流と連携」をあげ、将来目標として「交流と連携による世界に開かれた。“せとうち”の創造」を掲げている。そして、環瀬戸内圏の主要構想として循環型交通体系の整備、連環都市構想の実現、定住・リゾート圏の形成、広域リサーチ・コンプレックスの構築、歴史文化回廊づくり、による環瀬戸内経済文化圏の形成を提唱している。そして、6年に「第四次全国総合開発計画総合的点検に対する意見書」を、9年には「次期全総計画策定に向けた意見」をそれぞれとりまとめ、環瀬戸内圏を国土計画の中でアジア太平洋諸国との交流・連携をめざす広域国際交流圏の中核地域として位置づけ、環境・文化を重視した広域観光圏の形成、環境保全型産業の集積促進地域としての整備、広域国際交流圏形成のための基盤整備に努めるよう要望した。このほか、7年からは環瀬戸内圏PRシンポジウムを開催するほか、「文化財の保護・活用に関する要望」の建議(8年)、「環瀬戸内圏環境資産憲章」の採択(9年)、アジア中小企業見本市「ダイナミック・アジア」での環瀬戸内圏観光・地場産業見本市の開催(10年)など多彩な事業を展開している。

●京阪神3商議所懇談会の開催

 昭和58年、京阪神3商工会議所が連携を密にし、それぞれが進めているプロジェクトに協力しようと9年ぶりに首脳懇談会を開催した。その後、概ね毎年1回、3会議所の首脳が一堂に会しており、平成10年現在で17回を数えている。本懇談会で協議し、相互に協力して進めた主なプロジェクトとしては、関西国際空港、関西文化学術研究都市、明石海峡大橋、和風迎賓館などの建設促進、国際花と緑の博覧会、ワールド・ファッション・フェア、平安建都1200年記念事業、地球温暖化防止京都会議(COP3)、京阪神三都夏まつりなどの開催協力がある。また、7年1月の阪神・淡路大震災の際には、3月に開催予定の本懇談会を2月に繰り上げ、福井、大津、奈良、和歌山の各会議所の会頭にも参加を呼びかけ、近畿の商工会議所のネットワークを生かして、被災離職者や内定取消者のための求人情報の提供、被災企業の再開支援、経営指導員の派遣による被災企業の経営指導・相談などを行うことを決め、実施に移した。


2006.3.3更新
Copyright(C) 1996-2006 大阪商工会議所