(以下の記載は、平成10年度末現在の内容のため、現在では終了している事業があります) |
大阪商工会議所は、平成10年(1998年)創立120周年を迎えた。明治11年(1878年)に、前身となる大阪商法会議所が創設されて以来、本会議所は、時代の潮流を見据え、創意工夫を凝らしながら、地域経済発展の担い手として重要な役割を果してきた。本会議所活動に共通してみられる特徴としては、第一に企業、とりわけ中小企業の活力増進を一貫して促してきたこと、第二にそうした企業や人々が活動の拠点にしている大阪の基盤強化を、大阪府、大阪市などと緊密な連携プレイをとって進めてきたこと、第三に大阪がその長い歴史の中で育んできたアジアとの交流拡大に率先して取り組んできたこと、などがあげられる。とくに、こうした取り組みにあたっては、単なる従来の延長線上の発想ではなく、次々と新機軸を打ち出し、全国の商工会議所などに一歩先んじて具体的、実践的な事業を展開してきた。会議所の創立以来1世紀の歩みについては「大阪商工会議所百年史」にとりまとめられている。ここでは、それ以降の20年間(昭和54年〜平成10年)の本会議所活動を、政策要望活動、中小企業の活力増進、都市づくり・文化振興・地域間交流の促進、国際化の推進、組織強化と会員サービスの拡充の5つに大別してふり返ってみることにする。 |
Chapter:1 政策要望活動 |
昭和54年から平成10年までのわが国経済は、前半は第2次石油危機の発生、プラザ合意と円高時代の到来などにより国際経済社会との調整が求められた。後半はバブルの発生・崩壊、不況の長期化にみられるように、金融システムをはじめ戦後のわが国の発展を支えてきた制度・仕組みが随所で綻びをみせた。このように、この20年間は対外的にも国内的にも大きな転機に直面した時期であった。こうした中、本会議所は内需主導の経済成長の実現と、企業、とりわけ中小企業の振興策の充実などを通じて国民経済の繁栄を導くよう、政府などに対して積極的な政策要望活動を展開した。 |
■目次 |
1 - 経済運営に対する要望 | ||
●第2次石油危機への対応 わが国経済は、昭和53年秋のイラン政変を引き金として第2次石油危機に見舞われた。原油価格の高騰から卸売物価が騰勢を続け、その一方で上昇を続けていた円相場は一転して円安基調で推移した。そこで、金融政策は引き締めに転じ、公定歩合が54年4月以降5回にわたって引き上げられ、55年3月には史上最高水準の年9%に達した。こうした中、本会議所は、54年11月に物価の安定と内需中心の景気の持続的拡大、省エネルギーの徹底と代替エネルギーの開発利用の促進、中小企業施策の見直しと活力ある中小企業の育成などを訴えた。さらに、55年7月にも景気・物価対策の機動的運営、中小企業経営の安定などを要望した。こうした結果、政府は、公共事業の抑制解除を決めるとともに、公定歩合も56年3月には年6.25%に引き下げられた。 こうした対策の効果もあって、56年に入ると、わが国経済は緩やかな回復過程に向かったが、輸出中心の回復にとどまったことから、地域間、業種間、企業規模間で景況感に格差がみられるとともに、欧米各国との通商摩擦が再燃するに至った。そこで、本会議所では、内需中心の景気回復と対外経済摩擦の円滑化に全力をあげて取り組むよう訴えた。しかし、57年度に入って、世界経済の同時停滞や通商摩擦の進行などにより輸出も不振に陥り、中小企業や素材産業を中心に不況色が強まった。本会議所は、中小企業を対象とした個別不況対策と景気の維持・拡大、対外経済関係の円滑化に万全の措置を講じるよう重ねて要望した。57年10月には中小企業に対する金融面での支援措置、公共投資の拡充、住宅建設の促進などが決まった。58年以降、米国景気の回復を背景とした輸出の増加と在庫調整の進展などから、国内景気は緩やかながら回復に向かって動き出し、59年に入って設備投資も徐々に拡がったが、個人消費や公共投資は引き続き盛り上がりを欠く、輸出依存の回復にとどまった。 ●プラザ合意と円高対策 このように、わが国経済が米国を中心とした外需依存による回復であったことから、経常黒字が累増し、対外摩擦が激化した。そこで、日本や米国などは昭和60年9月、対外不均衡の是正と世界経済の健全化のために先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議(G5)においてドル高修正に合意した。この、いわゆる「プラザ合意」を契機として、世界の為替相場はドル高是正へと動き、円相場はG5直前のードル240円台から9月末210円台、G年1月190円台、6月160円台、8月150円台へと急騰した。この円高にともない、輸出は大きく後退し、設備投資も鈍化して円高不況の様相を強めた。こうした中、本会議所は60年12月に「当面の経済運営に関する要望」を、61年2月には在阪経済5団体の連名で、また5月には京阪神3商工会議所の連名で「円高対策に関する緊急要望」をそれぞれとりまとめ、公定歩合の引き下げ、中小企業向け円高緊急融資の拡充、公共事業量の確保などを要望した。その結果、9月に公共投資の追加、住宅建設や民間設備投資の促進などを柱とした総合経済対策が決定され、公定歩合も62年2月には年2.5%とそれまでの最低水準となった。こうした財政金融両面からの施策の効果や企業のリストラ努力が相まって、景気は61年の後半に底を打ち、個人消費、住宅建設、設備投資など内需を中心とした回復局面に人った。 ●バブルの発生・崩壊への対応 わが国経済は、昭和の終わりから平成のはじめにかけて、いわゆるバブルの発生と崩壊に見舞われた。平成2年の6大都市の地価は昭和60年の約4倍に上昇し、日経平均株価も平成元年末には3万8915円という史上最高値を記録した。こうした状況を受けて、金融政策は引き締めに転じ、公定歩合は元年5月以降5次にわたって引き上げられ、2年8月には年6%となった。その結果、株価は元年末をピークに下落、地価も3年にピークを打ったが、同時に景気も調整局面に入った。そこで、4年5月に大阪府商工会議所連合会として「景気対策に関する要望」を、11月には近畿商工会議所連合会として「補正予算の早期成立に関する緊急要望」、さらに本会議所単独で「景気浮揚策に関する緊急要望」を、そして5年3月には京阪神3商工会議所連名で「当面の景気対策に関する要望」などを相次いで建議した。その結果、4年8月には総合経済対策が決まり、12月には補正予算が成立、公定歩合も5年2月には年2.5%にまで引き下げられた。5年度に入っても、株価・地価の下落、金融システム不安、急激な円高などによって厳しい景気情勢が続き、数次にわたって経済対策がとりまとめられ、6年2月には5・5兆円規模の所得減税を含む「総合経済対策」が打ち出された。 この間、本会議所では、国などに対する政策要望活動だけでなく、「不況の時こそ一灯をともすのが商工会議所」との考えのもと、5年3月には「いきいき大阪・元気はつらつ」キヤンペーンを大阪府下の卸・小売商業団体などともに展開した。これは、消費低迷と経営者の弱気感を民間自らの力で払拭し、景気回復を促そうというもので、大型店を含む287ヵ所で協賛セールが繰り広げられるなど「元気ムード」を盛り上げた。 ●長引く不況と景気対策 経済企画庁は平成6年9月、月例経済報告において「緩やかながら回復の方向に向かっている」と事実上の景気回復宣言を行った。しかし、回復感が乏しかった上に、7年に入って円高が加速、4月には一時80円を割るという超円高に突入し、阪神・淡路大震災なども重なり、先行き一段と不透明色を強めた。本会議所は、円高の是正と景気回復、震災復興を繰り返し訴えた。また、大西正文・会頭が7年7月に政府の金融制度調査会「金融システム安定化委員会」の委員に任命され、中小企業に対する資金供給の円滑化、不良債権処理に対する国民の合意形成、金融機関の破綻処理方法と再発防止の仕組みの提示などを求めた。その後、円高の修正、公定歩合の年0.5%という史上最低水準への引き下げや大規模な経済対策などにより、7年後半から緩やかな回復基調に転じた。こうした中、8年1月に発足した橋本内閣は、行政・財政構造・金融システム・経済構造など6分野の構造改革に取り組む方針を打ち出し、本格的な検討を進めた。そして、9年4月に消費税率の引き上げと特別減税の廃止を、9月には医療保険制度の改定を行った。これらの国民負担増に加え、7月以降アジアで通貨不安が勃発し、11月には国内金融機関の破綻が相次ぐなど、景気は一転して不況色を強めた。本会議所では、9年9月に法人の実効税率の40%への引き下げや5兆円規模の恒久的な所得減税の実施などを要望するとともに、10月には大阪府商工会議所連合会、大阪府中小企業団体連合会などが主催する「中小企業対策大阪大会〜守ろう中小企業、活かそう中小企業の力」に協力し、地元選出国会議員に対して中小企業の苦境打開と果敢な中小企業対策の実施を訴えた。さらに、10年3月には即効性のある景気対策や貸し渋り対策の実施を求めて「経済対策に関する緊急要望」を建議した。この結果、4月には公共投資の追加、特別減税の実施、中小企業向け融資の拡充などを柱とした事業規模で過去最高の拓兆円超に上る「総合経済対策」が打ち出され、6月にはその裏付けとなる補正予算が成立した。 |
2 - 中小企業対策の拡充 | |||||||
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3 - 諸制度の改革促進 | ||
●増税なき財政再建の推進 2度の石油危機を経て、わが国は低成長時代に入った。他方、財政は石油危機後の景気対策などのための財政支出の拡大、法人税を中心とする税収の落ち込みなどにより、公債依存度が高まった。つまり、昭和50年度に特例公債の発行を余儀なくされ、54年度には建設公債を含めて依存度は34.7%に達した。そこで、政府は56年3月、第2次臨時行政調査会を設置し、歳出削減の検討に着手した。本会議所は、毎年の「税制改正に関する要望」などで、財政再建のためには、安易な増税を回避し、民間経済活動を活発化させるとともに、肥大化した行財政制度・機構を抜本的に見直し、歳出の思い切った圧縮を図るなど簡素で効率的な政府を実現することが先決であると一貫して訴えた。とくに、60年1月には在阪経済5団体連名で「企業課税の強化に断固反対する」決議を、12月には京阪神3商工会議所連名で「企業増税反対に関する要望」をとりまとめ、関係機関に建議した。こうした結果、政府は58年度以降概算要求段階でマイナス・シーリングを設定するなど歳出の合理化努力に努めた結果、税収の好調さにも支えられて平成2年度予算において15年間続いた特例公債からの脱却を果たした。しかし、その後の不況により、6年度から再び発行を余儀なくされている。この間の法人税率(基本税率・留保分)の推移をみると、56年度に42.0%(従来40.0%)、59年度に43.3%に引き上げられた後、62年度に42.0%、平成元年度に40.0%、2年度に37.5%、10年度に34.5%に引き下げられた。 ●直間比率の是正と消費税の導入問題 昭和62年2月、政府は「売上税法案」を国会に提出したが、国会が紛糾したため、衆議院議長のあっせんで衆議院に設けられる税制改革に関する協議機関で協議されることになった。本会議所では、53年10月に「一般消費税に関する意見」をまとめ、「納税者の十分な理解と納得を得ることなしに導入を急ぐならば、多大の摩擦と混乱は避けられない」として慎重の上にも慎重な対応を求めた。その後も、61年9月の「税制改革に関する要望」、62年5月の在阪経済5団体連名にょる「税制改革に関する緊急要望」で税制改革については十分な議論を尽くし、国民の幅広い理解を求めるよう要望した。その後、政府税制調査会から「税制改革についての素案」が発表されたのを受け、63年4月、役員・議員などに対してアンケート調査を行い、その結果も踏まえて「税制改革に関する意見」を建議した。そして、消費税の導入は法人税、所得税、相続税の大幅減税を行い、行財政改革の徹底と不公平税制の是正を図った上で、なお財源が不足する場合において、事業者の事務負担軽減や税負担の転嫁の円滑化などに格段の配慮を払うことを条件にやむを得ないとの姿勢を示した。さらに、6月には「税制改革大綱に対する意見」を、平成元年3月には「消費税の転嫁円滑化に関する決議」をそれぞれとりまとめ、関係機関に建議した。政府は、元年4月から消費税の導入に踏み切る一方、所得税・住民税の減税、法人の税負担の段階的引き下げ、相続税の軽減などを実施し、直間比率の是正を図った。 ●規制緩和の推進 本会議所は、変貌する社会経済環境の中で企業活力が最大限に発揮できる環境づくりの一環として、規制緩和を訴えてきた。とくに、昭和39年に施行された「近畿圏の既成都市地域における工場等の制限に関する法律」については、昭和60年代はじめから、同法の産業・人口の過度の集中防止という所期の目的は達せられたとして、京阪神3市・3商工会議所連名で繰り返し見直しを求め、平成6年6月には近畿の制限区域内にある8商工会議所とともに廃止を要望した。その結果、工場跡地等の制限緩和、除外業種の拡大などの措置が実現をみた。また、2年6月には「土地対策に関する諸課題への提言」をまとめ、都市開発・再開発、土地の有効利用、住宅の供給、社会資本の整備などを促す観点から、土地の利用・取引規制や土地税制の見直しなどを求めた。 政府は7年3月に規制緩和推進5ヵ年計画を策定したが、本会議所はその過程においても6年3月に経済活動を支える基盤産業である「情報・通信分野に係わる制度、諸規制の見直しについての要望」を建議したほか、6年11月に政府の行政改革推進本部規制緩和検討委員会の専門委員に任命された松本進・副会頭を通じ、土地・住宅、流通、物流、運輸、電気事業など幅広い分野で意見開陳を行った。さらに同年11月には、近畿通商産業局の意見照会に対して、店頭登録基準の緩和、ジュニア資本市場の創設、国公立大学教員の兼業規制の緩和、ストック・オプション・プラン導入のための自社株の取得・保有、住宅供給の障害となる土地利用の各種規制の緩和などを具申し、規制緩和推進5ヵ年計画への反映に努めた。 また、本会議所は、2年5月に「外国人労働者受入れ拡大に関する要望」を、10年2月に「外国人技能労働者の雇用に関する要望」をとりまとめ、外国人労働者の受入れ拡大のための環境づくりを要望した。とくに、本格的な少子・高齢化社会を迎える中で、一定水準以上の技能・技術を有する外国人技能労働者の就労を一定期間に限って認めるとともに、現行の外国人研修制度と技能実習制度を延長して技能・技術の習得機会を増大させるよう求めた。 ●国土利用計画への意見反映 本会議所では、全国総合開発計画の策定にあたり、関西圏の国内外における明確な位置づけと諸機能の強化を求めてきた。つまり、第四次計画の策定に際しては、昭和61年12月に本会議所単独で、翌62年1月には関西の2府6県、京阪神3市・3商工会議所などと連名で、「第四次全国総合開発計画に関する意見」をとりまとめ、関西圏を全国的、国際的な経済・文化・研究センター、とくにアジア・太平洋圏域における世界都市と位置づけ、東京圏とは異なる諸機能の充実を図るべきであると強調した。こうした結果、62年6月に策定された第四次全国総合開発計画では、関西圏は独自の全国的、世界的な中枢機能を担い、21世紀に向けて独創的な産業と文化を創造する中枢圏域の形成と世界各地との国際交流拠点としての機能の強化を図ることが明記された。その後、63年6月には「多極分散型国土形成の推進に関する要望」を府・市・在阪経済団体との連名で建議し、地方分権の強化、国の行政機関等の移転、大都市政策の確立などを訴えた。平成6年6月には、国土審議会が新たな全総計画策定の必要性を提言したのを受け、7月、大阪府・大阪市・関西経済連合会と共同で意見書を提出し、新たな全総計画の策定にあたり、関西圏を「総合的な機能を備えた世界都市」、「わが国の発展をりードしていくべき圏域」として明記することを求めた。本会議所では、さらに7年11月と翌8年10月に「新たな全総計画策定に向けての意見」をまとめ、新しい国土軸の構築や地方主権の確立などの推進を訴えるとともに、関西圏の目指すべき方向として独創的な産業創造、生活者重視、アジア太平洋地域のセンター機能の発揮などを提案した。10年3月に閣議決定された「21世紀の国土のグランドデザイン」では、多軸型国土構造形成の基礎づくりを目標に、近畿地域については「文化の香りが高い、創造性に満ちた、世界に誇り得る中枢圏域」として発展を目指すと明記された。 |
2006.3.3更新 |