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戦後の大阪商工会議所(2)
昭和41年〜昭和53年

万博を境に、わが国経済は円切上げ、オイルショックと厳しい試練の時代に入った。会議所もまた過去の歴史になかった小規模事業対策、生命保険、特定退職金共済制度などの新事業を展開する一方、ファッション産業の育成、文化振興など、新しい大阪づくりに挑戦している。

1.世界は1つ、万国博を誘致

 「進歩と調和」をテーマに、世紀の祭典日本万国博覧会が昭和45年、大阪の千里丘陵で開かれた。東洋で初めての万国博である。甲子園球場83個分が、すっぽりはいる約100万坪の敷地に、世界77カ国が思い思いの豪華なパビリオンを建設し、各国の技術、文化の粋が誇らしげに展示された。
 会場にはアメリカの月の石、ソ連の人工衛星をはじめ、アジア・アフリカの開発途上国も独自の展示で競いあった。また、世界一流のショウも次々と披露された。会期中(3月15日〜9月13日)の入場者は延べ6,400万人を超え大成功裏に終った。
 多様な世界が一つになって、この大阪に実現したのである。この時から、大阪は単に経済都市というだけでなく、世界の国際都市の仲間入りをした。
 万国博開催によって、関連事業費約1兆円(うち政府投資6,300億円)が投資され、大阪の道路、地下鉄網が一挙に整備された。また商店街、百貨店は消費ブームにわいた。
 この万国博開催は、会議所創設以来の大阪財界人の夢であった。明治37年、日本誘致を建議し、また日露戦争後も開催の意欲を燃やした。これがやっと実ったのである。昭和39年の大商新年賀会で杉会頭が左藤知事に「万国博を開こう」と耳打ちしたのが事の始まりであった。誘致から、計画、運営まで会議所は極めて重要な役割を果した。とくに誘致には大変な努力が払われた。まずこ小田原会頭が知事、市長の仲に入り、候補地の南港案と千里案の一本化を図り、立候補した神戸、滋賀の調整に当った。とくに決め手となったのは、会場決定に大きな影響力を持つ故河野一郎国務相と小田原会頭のヒザ詰め談判であった。お互いにそっぽを向いての激論となったが、ついに説得、これが政府の意志統一の決定打となった。
 今、万博跡地には日本庭園、国立民族学博物館、国立国際美術館が建ち、文化の拠点となりつつある。

2.日中国交回復の先がけと中国展開催

 昭和47年秋、多年の念願であった日中国交正常化が実現した。これに先立ち昭和46年9月、関西財界訪中団(団長=佐伯勇会頭)が組織され、中国との懇親が行われた。これが正常化へのきっかけともなった。
 関西は歴史的に中国との関係が深い。それだけに、過去30数年の断絶をとり戻すには関西にふさわしい役割であった。
この正常化を機会に、佐伯会頭が昭和47年9月、議員総会に大阪で中国博を開こうと提唱、自らこの実現に邁進した。
 さっそく関経連、工業会、同友会、関経協ら在阪経済5団体と連盟で博覧会開催の要望をまとめ政府等関係当局に働きかけ、協力の約束をとりつけた。一方、中国側にも来日した要人らに要望するとともに、昭年48年1月、佐伯会頭自ら訪中し、中国側の責任者に説明し、その熱意を訴えた。こうした努力の結果、わが国初の「中華人民共和国展覧会」開催が決った。そこで昭和48年受け入れ機関として財団法人大阪中国展覧会協会(会長=佐伯会頭)が設立され、実行に移された。会期中、連日の爆発的な大盛況となった。

中国展の概要
●主催/中華人民共和国国際貿易促進委員会
●会期/49年7月13日(土)〜8月11日(日)
●会場/万博記念公園内
●展示内容/・第1展示館(7,200平方m)=日中友好展示、農林漁業、重・軽工業部の展示。・第2展示館(万博美術館)=手工芸品部門、文化部門。・劇場(万博記念ホール)=映画紹介。・中国特産物記念即売場
●入場者/260万6,320人

●第18代会頭/昭和41年7月〜46年3月
●出身地/茨城県、明治30年l月9日生れ
●職歴/丸紅飯田(株)社長、日本織物中央卸商業組合連合会理事長、日本万国博覧会協会常任理事、大阪国際見本市委員会会長など
●資料/現代人物史(実業之世界社)、日本の経営者(野田豊)

●第19代会頭/昭和46年3月〜56年11月
●出身地/愛媛県、明治36年3月25日生れ
●職歴/近畿日本鉄道(株)会長、日本商工会議所副会頭、経団連副会長、日本民営鉄道協会顧問、日本万国博覧会常任理事、大阪中国展覧会協会会長、大阪国際見本市委員会会長、伊丹空港協会会長、関西新国際空港推進協議会代表理事など
●資料/大阪の顔(格安啓介)、財界人の横顔(岩崎徹太)など


3.サービス事業の強化

 “歴史は繰り返さない”。大商100年の歴史をみると、昭和45年ごろから過去には先例のない事業と取り組んでいる。それまでの事業は大なり小なり過去に例が見出された。  その新事業はとくに会員サービス事業部門の強化である。昭和46年12月、経営情報センターを併設し、中小企業のための共同利用を実施している。  また昭和48年4月、賢島研修センターを建設し、福祉施設の乏しい中小企業に安い料金で研修宿泊施設を提供し、年々利用者が増大している。さらに会員企業で働く従業員の福祉厚生の一環として昭和49年4月、割安の掛金で大きな保障が得られる生命共済制度を、昭和50年4月掛金が損金算入できる特定退職金共済制度を実施している。  新しい革袋には新しい会議所事業というわけである。


4.23支部の設置

 昭和53年7月現在の会員数は2万6,811と全国一の規模となっている。これら大阪全域の商工業者の二一ズに応えるため、従来からあった市内23地区の出張所を支部(49年6月)に昇格した。これを足場に小規模事業者の経営指導や組織化を図る一方、講座、講習会を開くなど会員サービスに努めている。
 また、昭和48年10月から小企業者の運転・設備資金のためのマルケイ融資(現在1件250万円限度)の推せんを開始した。

5.文化の振興と国立文楽劇場の誘致

 文化問題に関心をもち、提言しているのが関西財界の特徴の一つである。全国の475会議所の中で、戦後すぐから文化部会を設けているのは大阪だけ。
 文化振興事業にとくに積極的に取組みだしたのは、オイルショック前後からである。高度成長から低成長に入って、昭和50年、中断された天神祭船渡御行事を復活して、地域社会の活気を盛りあげている。これは会員企業の寄金によって年々盛況となり、大阪らしい夏の風物詩をかもしている。
 また昭和51年にはわが国一流の学者、専門家による第1回大阪都市文化会議を開き、大阪人に都市と文化のあり方を再び見直させる契機となった。
 さらに、昭和49年来、大阪の伝統芸能である文楽の保存育成のため国立文楽劇場の大阪誘致に乗りだし、文化庁芸術文化専門調査会はついに51年大阪に国立劇場を建設すべきであると答申、現在、政府予算もつき、基本構想の検討が進められている。ここ2、3年のうちに大阪南の一角に同劇場が実現する。佐伯会頭の熱意が実った結果である。

6.ファッション産業育成の第一歩

 大阪の産業はこれまで繊維など素材型の産業に偏っていたが、新しい時代の要請に応じて、資源消費の少ない、付加価値の高い知識集約的な産業へ転換していかねばならない。
 この第一弾として繊維産業のファッション化を取りあげ、昭和50年度ファッション産業振興特別委員会を設け、検討を重ねた。その結果、昭和52年度ファッション専門家の養成のため、米国UCLA大学と共催で内外一流専門家によるセミナーを大々的に開いた。また、わが国で初めての繊維の総合的な国際見本市「イースタン・ストッブ展」を昭和53年5月12日〜15日まで開催した。催しは第1会場の箕面OTCで素材部門を、第2会場のOMMで素材と婦人もの、第3会場の谷町MFCで既製服を展示し、うち2日間はフェスティバルホールで宝塚歌劇団によってファッションショーが行われた。不況にもかかわらず大変な盛況となった(入場者計9万人)。大阪産業のファッション化への第一歩が開始されたわけである。

2023.11.22更新
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