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明治中・後期の 大阪商業会議所
明治24年〜同45年

日清、日露両戦役で大阪は企業熱が起り、近代産業が発達した。また満韓市場を得て、繁栄の基礎ができた。この時期、大阪商業会議所は貿易振興、不況対策、さらに地域振興のためのプロジェクトの推進と、より幅広く活躍した。

1.法的団体として大阪商業会議所へ改組

 明治10年代後半から、大阪に近代産業が勃興した。当時の民間の旺盛な企業熱は、その後の繊維王国、私鉄隆盛の基を築いたが、その結果は早くも過剰生産となって、わが国経済は明治23年、初めて本格的な恐慌を経験した。このため大阪の紡績産業では、この年初めて第一次操短を余儀なくされ、その対策として清国へ綿糸輸出が試みられた。
 大阪経済がこうして対外的にも活動しはじめた明治23年の9月、政府は「商業会議所条例」を制定した。これは、会議所100年の歴史の中でもっとも画期的なことで、それまでの私設団体から法的団体になったのである。創設以来13年間の会議所の活動がやっと社会的に公認されたことになる。この条例にもとづき、明治24年1月、商法会議所を発展的に解消して、新たに大阪商業会議所として再スタートした。それまでの商法会議所は寄付金や補助金(政府・大阪府)に頼って、明確な会費規定がなかった。このため「商業会議所条例」では、会員(現在の議員)選挙権を有する業者に対する経費の徴収権を認め、会議所財政が強化され、幅広く活動できる基盤が築かれた。また翌年には全国的な商業会議所連合会が誕生した。その後、明治35年3月、条例を廃止して「商業会議所法」が発布され、組織の拡充と財政基盤の確立が一層図られた。

2.貿易の振興と大阪築港

 明治期の大阪経済が再び繁栄をとりもどすためには、海外へ眼を見開く必要があった。会議所初代の理事で外国貿易に尽力した加藤祐一氏の「交易心得草前篇」によると、当時の大阪商人の姿勢を次のように述べている。「日本国中に大商富家の多く集りたる地は、大阪に超えたるはなき程なれども、交易に人気の進まぬは、交易はしてもせいでも是迄の家業にて十分なりとして手だしをせぬ人、或は新規の事に手だしするは家風になき事也など姑息なる論をたててせぬ人などある故なり」と。
 大阪商人がこのような保守的な姿勢であったので、会議所は貿易振興と海外の窓口となる大阪築港に、創設以来鋭意努力している。
 貿易振興では、当時輸出入とも外国人を通じた商館貿易であったので、直貿易ができるよう商品知識や世界事情に通じるため大阪府商品陳列所づくり(明治23年)に参画した。また、貿易関係官庁・金融機関大阪支店の誘致、関税改正などを明治期を通じて行っている。
 一方、大阪港は明治元年開港したが、当時何の設備もなく、河口は絶えず泥や砂に埋れ、航行に不便で寂れる一方であった。藤田伝三郎が副会頭時代、独力で築港計画を立てたこともあったが、巨額の工費を要し、実現は意の如く進まなかった。大商は、かねてから大阪築港を大阪市へ訴えた結果、ようやく明治30年10月築港起工式にこぎつけ、36年になって優に1万トン級の大船が出入り出来るようになった。
 こうした努力の結果、大阪港の貿易額は急増して、明治35年には輸出入が逆転し、輸出が輸入をオーバーするようになった。
 この歴史が示すように、大阪の苦難期は常に海外へ向って努力を重ねて、大阪の繁栄を切り開いていったといえよう。

●第4代会頭/明治24年7月〜26年3月
●出身地/長州阿武郡、文政8年10月3日生れ
●職歴/米穀商、堂島米会所頭取(4年)、大阪商法会議所創立(11年)、大阪株式取引所理事長(16年)など
●資料/関西財界外史(関経連)


3.第5回内国勧業博と土居会頭

 明治後半、ようやく経済近代化の歩みを始めた大阪に、パッと花開いたのが第5回内国勧業博の開催であった。
 同博覧会は明治36年3月1日から5カ月間、今の天王寺公園一帯(11万4千坪)で開かれた。夜はイルミネーションが輝き、それだけで人々を仰天させた。会場には国内の工業館、農業館、林業館とならんで、海外の最新製品を展示する参考館があった。とくに米国の蒸気自動車は大変な人気で、常に黒山の人だかりとなった。
 この開催によって、大阪の産業、文化の発展をどれほど早めたかはかり知れない。田んぼだった会場一帯の都市開発や商店街の改良、大阪ホテルの開館。展示された自動車がその年、梅田、恵美須町間の乗合バスとなり、交通の革新となった。
 大商はこの博覧会誘致に主役を演じた。明治28年大商中興の祖といわれる土居通夫氏が第7代会頭に就任するや、関西の商議所の支援を得て政府へ積極的な働きかけを始めた。一方、32年2月8日第5回内国勧業博覧会期成同盟会を府・市・会議所で組織して運動に乗り出した。しかし東京案に決まる大勢であったので、土居同会長は自分の責任で運動費1万円を投じ必死の運動を展開した。その結果、国会で108票対121票でやっと大阪に決まった。開催準備でも土居会頭は協賛会を設け府市間の意見調整に当り、住友吉左衛門氏を会長に市長ともども副会長に就任、募金活動などに東奔西走してついに開催日を迎えた。土居会頭と大商の成果である。この経過は、まさしく昭和45年の万国博と同じであった。

●第6代会頭/明治27年3月〜28年3月
●出身地/奈良県十市郡、弘化3年2月15日生れ
●職歴/五龍円(薬)・大阪硫曹会社社長、天満紡績設立、和歌山織布会社・浪花電灯会社重役など
●資料/大商月報チェンバー(昭和42年8月号)

●第7代会頭/明治28年4月〜大正6年8月
●出身地/伊豫国宇和島、天保8年4月21日生れ
●職歴/大阪府権少参事、大阪控訴裁判所所長、鴻池顧問、大阪電灯(株)社長など
●資料/土居通夫君伝(中井桃水)、郷土史にかがやく人々(大阪府)


4.日露戦後の増税反対と会議所の危機

 日清日露の両大戦を通じて、大阪の近代産業は一層発展した。とくに、日露戦争後は、満州を中心に大陸へ向けて一大進出が開始され、「日本の大阪」から「東洋の大阪」へ躍進した。
 ところで、日露戦争(明治37年〜38年)は日清戦争の約7.5倍の尨大な戦費を要した。その戦費は、公債(全体の8割)と非常時特別税とで賄われた。ところが、戦後になってもこの非常時の増税は、戦時公債の利払い増や国家財政の膨張から、廃止されず継続されることになった。このため、大阪商工会議所は、明治39年8月、いち早く減税を要望した。しかし政府は一部減税したものの、代わりに新税を設ける状況であった。そこで、全国商業会議所連合会に働きかけ、ともに政府当局に対し、積極的な運動を行った。
 とくに当時の産業界が関心を持ったのは、非常時特別税の中で営業税の改正であった。しかし、これは容易に解決しえない難問題であったので、この改正運動は第一次大戦直前まで続いた。大商は、要望建議だけでなく、産業界の期待を担って全廃実行委員会を設け、猛運動を展開することになった。一方、主要物産同業組合を中心とする大阪実業団連合会の会合が大正3年2月5日、大阪帝国座で開かれた時、図らずも営業税全廃問題が話題となった。これがきっかけとなって、大商は実業団と共催で同月15日天王寺公園で営業税納税者大会を開いた。この結果、推進運動母体として営業税全廃期成大阪同盟が結成され、推されて土居会頭が会長となった。
 幸い会議所は全国的組織であるので、土居会頭はさっそく全国商業会議所連合会に提案して営業税改正を決議させるとともに、地方代表と共同で上京して政府に改正を迫った。
 不幸にして大正3年7月、第一次大戦が起ったため目的を達成できず、大戦後になってやっと軽減される結果に終った。
 ところが、日露戦後一連の特別税反対運動がたたって桂内閣から商業会議所法が一部改正(明治42年7月)され、経費の強制徴収権を剥奪されるハメとなった。この運動は建議活動というより、まさしく闘争であった。

2003.4.1更新
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