<< 将来の幸之助さん、英一郎さん?| ブログトップページ | リフレッシュ、リセット、スタートに! >>
2013年03月15日 09:48
ゆかりの品(広瀬宰平)が追加されました
おっちゃんには人事異動はないんか?
なんや、えらい唐突やな。
普通なら5年もおれば異動なんやけど、おっちゃんは来年もおることになったわ
ほんとか!
お!、なんや喜んでくれるのか。嬉しいな・・・
ちゃうわ、反対や。
おっちゃんが異動して見目麗しい人が来るのを楽しみにしとったのに・・・
そりゃ、悪かったな。
まあ、腐れ縁や思うて、来年もよろしくな
はあ~。しかたないな。よろしくしたるわ。
ところで、なんか面白い話はないんか
あるで!
展示している企業家のゆかりの方から、色々品物をいただいて展示に加えたんや
へー、どんなものが追加されたんや
一つは、住友中興の祖、広瀬宰平のお盆や。
お盆?
そや。広瀬宰平82歳の時に自らの長寿の感慨を子孫や身近な人に記した朱塗りの丸い輪島塗のお盆や
おっちゃん、わい広瀬さんがどんな人か知らんで。
まずは、そこから教えてや
すまんすまん。
広瀬宰平さんはな、逆命利君の人や。
なんやそれ?
逆命利君、これを忠と謂う(命に逆らっても君を利す、之を忠と謂う)、
これは広瀬さんの終生の座右の銘なんや。
「本当の忠義とは、上司や主君の命令、たとえ国家の命令であっても、それが主家のため国家のためにならなければ敢えて逆らうことあるべし」という強い意志がこめられた言葉なん や。
広瀬さんは文政11年(1828)滋賀県のお生まれで、11歳より住友の別子銅山に勤めて、別子銅山支配人を経て住友家経営トップの初代総理事となった人や。
激動の幕末・明治維新の時代にはいくつもの豪商がつぶれていったんやけど、住友は、この広瀬さんがおったからこそ、その動乱の時代を乗り越えることができたんや。
例えばこんな話があるんや。
江戸時代の日本は、世界有数の産銅国で住友はその銅を掘り出しとったんやけど、明治維新になると、新政府軍は別子銅山を接収しようとしたんや。
広瀬は、「産業貿易立国には産銅事業が必要であり、これを経験のない者に任せることは国益に反する」と必死に訴えて、継続経営の許可を守ったんや。
明治3年(1870)には住友家新年会の席上、「相変わりておめでとう」と挨拶したんや。
そしたらみんなは、「日本古来のあいさつは「相変わらず」である。
広瀬の言は不吉である」と責め立てたんや。
すると広瀬さんはな、「今日に於て最も切に願ふへきは、旧を捨て、新を取り、禍を転して福と為すに在り、宰平か今日の宴を祝するに、故らに世の慣例に反して、相変わりてとの語 を以てせしは、赤心以て御当家前途の万歳を祝し、御家運倍旧の隆盛を祈れはなり」と自説を滔々と述べたそうや。
広瀬さんは、この文明開化の時勢に、旧習にこり固まったままでは滅亡するぞ、いまこそ変革しなければならないと言いたかったんや。
旧を捨て、新を取り、住友家の近代化を訴え、明治7年(1874)には周囲の反対を押し切り、仏人技師ラロックを雇い別子銅山の技術革新を実施していったんや。
その時には鉱山で働く人に「俺らの仕事をなくすんか」と殺されかけたこともあった。
すさまじいな。
そうやろ。
けど、広瀬さんはな、「別子の産物で国益を図り、その事業が住友一家を利するにとどまらず、広く国家社会に貢献するようにしたい」 といって、一生懸命頑張ったんや。
そしていろんな事業をやった。
けど、さすがの広瀬さんも晩年には老いてもうて、まわりの勧めに従って引退したんや。
「57年夢飛ぶが如し・・・・」 とは、広瀬さん引退のことばなんやけどな、五七年間ひたすら住友家と別子銅山の発展に尽くした広瀬さんの人生を思うとこのお盆に書かれた言葉も感 慨深いで。
で、なんて書いてあるんや?
「養寿、宜志慮」
意味は、「長生きするためには志のある考えをするべきである」ということや。
志しか・・・ほんま大事やな!
おっちゃんも、来年度に向けて新しい事考えや
もちろんや。
他の新しいゆかりの品の話も含めて、また決まったら話すわ。
楽しみにしてるで
(広瀬宰平氏については、http://www.sumitomo.gr.jp/history/person/index03.htmlから主に引用して記載しています)
投稿者 museum | 2013年03月15日 09:48