佐藤会頭の眼~講演録
Chairman’s Eye with you

2015年7月6日(月) 大阪大学豊中キャンパス

「ひらパーから関西を考える」

 京阪電車は明治43年に開業しました。大阪の天満橋と京都の五条を結びました。たった一両だけの単車です。それでも開業当日は沿線のまちで花火が打ち上げられ、また京阪電車も花電車を走らせて祝ったということです。


 淀川左岸は商いの都である浪速と王城の地である京を結ぶ、いわゆる京街道です。また淀川には古くから舟運が発達し、熊野詣に行く平安時代の上皇も利用、江戸時代にはご存知三十石船が浪速と京を往復していました。それが明治の御代となり河川には蒸気船が走り、陸路は鉄道。河川、道路の交通が一変して、とりわけ、スピード感のある鉄路の出現には沿線の村々は驚きと共に明治の文明開化に大きな期待をもって歓迎したことが伺えます。因みに落語の三十石船は有名ですが、そこに出てくる鍵屋は枚方公園駅の近くに現存しております。

 鉄路の出現。それは、近代国家日本を象徴する画期的な交通インフラの登場でした。明治になって間もない明治5年、新橋・横浜間に初めての鉄道が開業しました。明治政府は西欧に追いつこうと近代化を急ぎ、富国強兵、殖産興業の方針を推し進めましたが、鉄道網はその具体的な施策でした。

P001_s3.jpg 京阪電車は明治43年に開業しましたが、明治39年創立です。創立委員長はかの渋沢栄一です。日本資本主義の父と言われる栄一翁が京阪電車の設立に大きく関わっていたという事実だけでも、鉄路の敷設が如何に大きな意味を持つものか、皆さんは想像できることでしょう。

 渋沢栄一の偉大さは、既に淀川右岸に明治10年に全線が開通した官営の鉄道があるので京阪間に二つの路線は不要だとの反対意見に対して、全国の鉄道のネットワークは整備されつつあり、大阪・京都間は近い将来の需要に供給不足になる、と先を読んだことにあります。大概の人は目先にとらわれるものですが、渋沢栄一は違います。秀れた先見の明、あるいは洞察力を持っていたからこそ、次々と事業を興し、事業を通して日本の近代化に力を発揮したものと言えます。その数、500を越える株式会社を作ったと言われております。日本の近代化を産業の分野から進めた偉大な人物です。

 しかし目先を見れば、京阪電車の発足時は乗客が少なく、経営は困難だったようです。福澤諭吉の学問すすめを読むと、明治初年の日本国の人口は約3,500万人です。人口のパイが小さく、加えて大阪、京都が当時の大都市であっても産業はいまだ未発達であって、通勤電車としての役割は小さくて、大方の人々の移動は狭いエリア内だったことでしょうから、移動手段としての鉄道の利用が少なかったことは容易に想像されます。
また、河川、道路から鉄路への移行も、運賃との比較においてハードルになったものと思われます。便利だろうが、エレキテルで走る電車は怖い、という恐怖感から電車を敬遠する人も多かったのではないでしょうか。