戦前の大阪は満韓支貿易によって繁栄した。
戦後、商都大阪の繁栄を築くために、貿易振興は極めて重要な課題であった。
このため会議所が中心となって、昭和26年財団法人海外市場調査会の設立に尽力したのもこのためであった。これは現在の特殊法人日本貿易振興会の前身で、37年ごろ本部を東京に移したあとも、大阪本部となっているのはこのためである。
また、貿易振興のビッグイベントは、昭和29年わが国初の大阪国際見本市であった。思えば産業界20有余年の悲願実現であった。紀元2,600年記念事業として企画されながら、戦争で中断した。会議所はこの実現に全力投球し、大阪府・市に呼びかけ、協力して政府の説得に努めた。その結果、実施母体として昭和27年社団法人日本国際見本市委員会(委員長=杉道助氏)が結成された。第1回見本市は、4月10日から2週間、内本町と港の2会場で開かれた。入場者、延27万5千人、出展514小間(うち海外17カ国)、海外参加者55カ国、2千人、取引成約額10億円(集計分のみ)と成功を収めた。会場玄関前には各国の旗がひるがえり、初めての国際色に大阪全体が胸おどらせた。今日も2年に1回開かれている。
閑話休題
大阪が世界への窓口となる国際空港を建設しようとする動きは、昭和33年の伊丹空港の米軍撤退声明で表面化した。しかし、大阪空港を国際空港とするためには難問が山積していた。政府は東京国際空港の拡張整備に追われ、東京がすんだあと大阪という方針を曲けず、地元が用地買収をすればあとから国が買い上げるという、いわゆる立替買収方式を打出した。そこで、大阪、神戸の府県市、両会議所で昭和33年社団法人伊丹空港協会を設立(会長=杉会頭のあと小田原会頭)し、最も困難な拡張用地の買収と移転補償の交渉に当り、今日の空港発展の基礎を築いた。
大阪国際空港施設の概要
●面積/317万平方m
●対象航空機/DC-8クラス
●空港容量/年間運航17万5千回
●滑走路/3,000m×60m、1,828m X45m
●誘道路/6,940mx23or30m
●エプロン/国際線12バース、国内線22バース
●駐車場/1,500台分
●ターミナルビル/全面積9万平方m、国際線用4階建、国内線用4階建、中央官庁部分8階建、
●防音施設/防音壁290m、防音林23,211平方m、騒音測定器9カ所、中央装置lカ所、等。 |
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●17代会頭/昭和35年11月〜41年7月
●出身地/広島県御調郡、明治25年11月生れ
●職歴/久保田鉄工社長(25年)、日本貿易会理事、日本国際連合協会関西本部本部長、関西国際空港ビルディング社長、伊丹空港協会会長、日本万国博覧会協会会長
職務代行
●資料/小田原大造氏の追想(野田孝)、私の履歴書(日本経済新聞社) |
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