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戦後の大阪商工会議所(1)
昭和21年〜同40年

過去100年、大阪の沈滞時には常に海外へ目を向け貿易振興に努め、また大阪府・市・会議所が協力して主要プロジェクトを推進し、その都度繁栄を図ってきた。会員の任意加入制となった戦後の会議所は、財政難のなかで30年代から40年代初めの大阪発展に主役を演じた。

1.会員のための会議所再出発

 敗戦。昭和21年、商工経済会法が廃止されたあと、民主化の波に沿って、まったく新しい会議所の再出発となった。
  • 昭和21年9月社団法人大阪商工会議所設立
  • 昭和25年11月簡単な商工会議所法制定による新定款認可を受く。
  • 昭和29年4月新商工会議所法により特殊法人として新発足。

 戦後の会議所制度は、戦前の強制加入ではなく、米国式の会員組織・任意加入制をとり、また、財政の助けとする特定商工業者制(事業税18万円以上または資本金300万円以上の商工業者の負担制度)をとった。だから、戦後の会議所は、会員のための、会員による運営とともに、公共性が重んじられた。
 終後当時、大阪経済は壊滅的な打撃を受けていた。とくに、大阪市内の生産額は、昭和16年に比べ、実に3割程度であった。それに大阪の主要な海外市場である満・韓・支市場を失った。
 産業界がどん底の状態であったから、大阪商工会議所の再出発は、財政的にまことに苦しいものであった。杉会頭が昭和23年会頭に再選された時の就任あいさつで「大阪商工会議所が創立して以来、このたびほど財政的窮地に陥ったことはなく、私はこれを見捨てて会頭の職を去るに忍びなかったのであります。その意味におきまして私は会頭の重任をむしろ望んでいました。」と述べ、その責任あふれる人格に接し、会場には感激の渦がみなぎった。忘れてならない歴史の一断面である。

●第15代会頭/昭和21年9月〜12月
●出身地/奈良市、明治23年5月8日生れ
●職歴/大阪商船副社長、大阪国際見本市委員会理事長、船舶運営会理事長、第一汽船社長など
●資料/大商月報チェンバー(43年6月号)


2.戦後の大阪経済振興と杉道助

 100年の歴史をみると、大阪は一大転機に直面した時、必ずすばらしい指導者とその協力者に恵まれ、危機を脱している。維新と同様、戦後においてもそうであった。
 戦後、30年代から40年代央の大阪発展の基礎を築いたのは、第16代杉会頭によるところ極めて大きい。誰いうとなく、杉さん、を、“ミニ五代”と呼んだ。その風貌は包容力と厳しさを兼ね備えて、むしろ昭和西郷を感じさせた。
 戦後の大阪経済の復興は、まず中小企業の生活必需品の生産から始まった。昭和22年民間貿易の一部開始、さらに昭和25年の朝鮮動乱による特需で、ようやく復興の道が開いた。しかし、それは昔日の大阪の姿ではなかった。
 昭和28年1月の会議所新年賀会で杉会頭は「大阪は経済の中心だとか、貿易産業の中心地だといわれてきたが、いまは名目だけで実質ではない。これをもとの大阪にもどそうではないか。これは単に関西という地域的感情にとらわれていうのではない。大阪の復興が日本の経済発展、国力の回復に寄与するところが大きいと信ずるからだ」と呼びかけた。並居る財界人はこれに賛成、新しい大阪づくりへ希望を燃やした。
 さっそく学識経験者による大阪経済振興審議会が組織され、商業、工業、運輸など各部門から、大阪経済の現状と沈滞の原因、さらにその振興策が検討された。同年12月には「大阪経済振興方策に関する調査報告書」として総合ビジョンと振興策がまとめられた。
 この結果は、昭和31年、大阪府・市・会議所で組織された大阪経済振興連絡協議会のもとに、大阪が一丸となって、推進された。
 今日みられる大阪国際空港、地下鉄網、幹線道路、港湾整備など重要施設や大阪産業の重化学工業化等は、この時の振興策の成果であり、40年代中ごろまで大阪の方向づけとなった。この報告書の診断と治療法は、今日でも参考になるところが多い。

●第16代会頭/昭和21年12月〜35年11月
●出身地/山口県山口市、明治17年2月20日生れ
●職歴/八木商店・大阪繊維製品配給(株)社長、財団法人海外市場調査会設立、日本国際見本市委員会委員長、(株)毎日放送社長、社団法人伊丹空港協会会長、日韓会談日本政府代表
●資料/杉道助追悼録(杉道助追悼録刊行委員会)、私の履歴書(日経)


3.国際見本市、国際空港と国際活動の花開く

 戦前の大阪は満韓支貿易によって繁栄した。
 戦後、商都大阪の繁栄を築くために、貿易振興は極めて重要な課題であった。
 このため会議所が中心となって、昭和26年財団法人海外市場調査会の設立に尽力したのもこのためであった。これは現在の特殊法人日本貿易振興会の前身で、37年ごろ本部を東京に移したあとも、大阪本部となっているのはこのためである。
 また、貿易振興のビッグイベントは、昭和29年わが国初の大阪国際見本市であった。思えば産業界20有余年の悲願実現であった。紀元2,600年記念事業として企画されながら、戦争で中断した。会議所はこの実現に全力投球し、大阪府・市に呼びかけ、協力して政府の説得に努めた。その結果、実施母体として昭和27年社団法人日本国際見本市委員会(委員長=杉道助氏)が結成された。第1回見本市は、4月10日から2週間、内本町と港の2会場で開かれた。入場者、延27万5千人、出展514小間(うち海外17カ国)、海外参加者55カ国、2千人、取引成約額10億円(集計分のみ)と成功を収めた。会場玄関前には各国の旗がひるがえり、初めての国際色に大阪全体が胸おどらせた。今日も2年に1回開かれている。

閑話休題
 大阪が世界への窓口となる国際空港を建設しようとする動きは、昭和33年の伊丹空港の米軍撤退声明で表面化した。しかし、大阪空港を国際空港とするためには難問が山積していた。政府は東京国際空港の拡張整備に追われ、東京がすんだあと大阪という方針を曲けず、地元が用地買収をすればあとから国が買い上げるという、いわゆる立替買収方式を打出した。そこで、大阪、神戸の府県市、両会議所で昭和33年社団法人伊丹空港協会を設立(会長=杉会頭のあと小田原会頭)し、最も困難な拡張用地の買収と移転補償の交渉に当り、今日の空港発展の基礎を築いた。

大阪国際空港施設の概要

●面積/317万平方m
●対象航空機/DC-8クラス
●空港容量/年間運航17万5千回
●滑走路/3,000m×60m、1,828m X45m
●誘道路/6,940mx23or30m
●エプロン/国際線12バース、国内線22バース
●駐車場/1,500台分
●ターミナルビル/全面積9万平方m、国際線用4階建、国内線用4階建、中央官庁部分8階建、
●防音施設/防音壁290m、防音林23,211平方m、騒音測定器9カ所、中央装置lカ所、等。

●17代会頭/昭和35年11月〜41年7月
●出身地/広島県御調郡、明治25年11月生れ
●職歴/久保田鉄工社長(25年)、日本貿易会理事、日本国際連合協会関西本部本部長、関西国際空港ビルディング社長、伊丹空港協会会長、日本万国博覧会協会会長 職務代行
●資料/小田原大造氏の追想(野田孝)、私の履歴書(日本経済新聞社)


2003.4.1更新
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