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昭和前期の大阪商工会議所
昭和元年〜同20年

末曽有の昭和恐慌で明けた昭和初め、大阪商工会議所へと変り、名実ともに地域総合団体となった。昭和10年前後の大阪は東京以上の経済力となったが、大商は恐慌と産業統制の中で深刻化する中小企業問題に取組むとともに、実務教育など幅広い活動を行った。

1.大阪商工会議所への改組と昭和恐慌時の役割

 震災手形の処理にからむ昭和2年の金融恐慌はやがて大阪へも飛火し、鈴木商店と台湾銀行の破綻から始まった。繊維関係と取引の多い一流銀行の近江銀行がついに休業すると、大阪の銀行取付けはその極に達した。
 その上、昭和4年の金解禁と世界大不況が重なって、大阪経済は大打撃をうけた。当時、職工30人以上の事業所約1,000の40%が休廃、30%が事業縮小の状態で、賃金の引下げ、労働時間短縮はあたりまえのことであった。とりわけ注目されるのは、大正末期から痛手をうけていた中小企業が金融恐慌によって深刻な問題となった。
 こうした時、昭和2年商工会議所法が公布され、大阪商業会議所は昭和3年3月大阪商工会議所へ改組した。以後、第二次世界大戦開始直前まで、この形態が続いた。
 この改正の主な点は(1)公式に工業も会員に含めて総合的な意見形成の場とした。(2)重要な業種別代表を議員に加え、また従来の特別議員を顧問制とした。(3)議員選挙方法を改め、個人に与えていた選挙権、被選挙権を企業単位とした。(4)人口100万人以上の大都市の会議所では議員を70名以内とした。(5)全国組織として日本商工会議所を法的に初めて認めた、などであった。
 同法改正に当って、昭和2年1月、当時の議員森平兵衛氏(第11代会頭)は、貴族院において「同法が真に商工業の改善発達に資するためには、会議所を商事行政事務の一部をもつ積極的な実行機関とすべきである」との意見を述べている。この意見は、従来の諮問機関から実行機関にしようとする全国の会議所の考え方をほぼ代表したものであった。この改正に伴い、会議所は、中小企業対策をはじめ、産業合理化、実務教育、国際活動など幅広い事業を行い、苦難の時代に対処していった。

●第10代会頭/大正11年12月〜昭和9年7月
●出身地/京都市、文久2年I0月30日生れ
●職歴/稲畑(株)・日本染料製造(株)(現住友化学)・日土貿易協会・関西日仏会館設立など
●資料/稲畑勝太郎君伝(高梨光司)


2.商工祭開催と大阪の繁栄

 昭和恐慌をくぐりぬけた昭和8年、大阪全体が祭りと商売にわきかえった。
 小売業者が所属する小売商業部会から年中行事として大阪商工祭を開催しようとの提案は、たちまち会議所あげて賛同するところとなった。さっそく大阪府・市・工業会・実業組合らで、執行機関として大阪商工祭協会(会長=稲畑勝太郎氏)が設立された。
 第1回商工祭は昭和8年11月2〜4日の3日間開かれた。この催しは暗く長い不況時代を乗り切って、大大阪へと発展した経済力がここで一気に爆発した格好であった。
 この期間は、全市での大売り出し、大阪城から天王寺までの時代行列、中央公会堂での記念講演会が行われ、花電車、装飾自動車のパレードが、いやがうえでも祭気分を盛りあげた。夜ともなれば、打ち上げ花火、提灯行列までくり出す豪華多彩な祭りとなった。
 商工祭が挙行された趣旨は、大阪は豊公入城以来350年経済都市として発達をとげ、名実ともにわが国産業貿易の中心地となった。大阪の隆盛をもたらしたのは、まったく歴代の先覚者の苦闘によるものである。だから、これら先覚者の英霊を合祀し、大阪あげて今日の繁栄を祝おうというのであった。
 この商工祭の開催は、自主独立を掲げる大阪産業人の気概を大いに示した。

●第11代会頭/昭和9年7月〜10年12月
●出身地/大阪京橋、明治7年2月生れ
●職歴/薬剤師、丹平商会社長、大阪売薬同業組合連合会会長など
●資料/大阪財界人物史(国勢協会)

●第12代会頭/昭和l0年12月〜15年11月
●出身地/石川県金石町、明治6年4月25日生れ
●職歴/(株)安宅商会創立.甲南高等女学校設立など
●資料/安宅産業60年史、大阪財界人物史(国勢協会)


3.大阪府商工経済会への改組

 陸軍の青年将校が高橋蔵相邸らを襲った昭和11年の2.26事件当時の大阪経済は、ようやく転回点を迎えようとしていた。
 昭和元年の大阪市の生産額は約8億96百万円と東京市の約3億68百万円を抜いて全国のトップであった。しかし、軍事色、統制色が強まる中で、東京の産業が急テンポで重化学工業化を進めた結果、昭和10年前後には東京が大阪を追い抜いた。
 その後、日華事変、太平洋戦争と進むにつれ、軽工業主体、自由主義をモットーとする大阪経済は漸次苦難の道を辿った。
 大阪商工会議所もまた試練期を迎え、全国の経済団体でも珍しく一連の統制措置や中小企業整備について産業界の立場から、勇敢に政府当局へ意見を述べた。しかし、昭和18年3月、ついに商工会議所法が廃止され、商工経済会法が公布された。一府県一商工経済会設立の原則にもとづき、大阪・堺・布施の三商工会議所は合併、本部を大阪におき、堺・布施をそれぞれ支部とした。
 商工経済会の事業目的は主に産業経済の統制に対する協力であっただけに、会頭は地元で銓衡のあと商工大臣の任名制により、また役員は大阪府知事の承認を要した。これまでの議員制度に代る評議員会も知事の承認事項となった。
 こうして、産業界の自主的な団体活動は全く終りを告げ、統制法の周知、代用品発明等の製造奨励、さらに調査活動に専念することになった。

●第13代会頭/昭和15年11月〜18年9月
●出身地/石川県金沢市、明治9年6月4日生れ
●職歴/日本銀行技師(明治30年)、大阪工業会理事長、日本建築協会会長など
●資料/日本経済を育てた人々(高橋弥次郎)

●第14代会頭/昭和18年9月〜21年9月
●出身地/奈良県山辺郡、明治17年1月3日生れ
●職歴/東洋紡績会長、繊維統制会会長、関西経済連合会設立、大蔵・商工両省顧問、東大講師など
●資料/関桂三氏追懐録(関桂三氏追懐録刊行会)


2003.4.1更新
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