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大正期の大阪商業会議所
大正元年〜同15年

大正時代の大阪は、第一次大戦による空前の発展とその反動不況のうちに推移した。今日の主要産業や都市の原型はこの時にでき上った。大商はこの時期、諮問機関としての役割にとどまらず、人材育成や産業合理化運動など実践的活動をも行った。

1.第一次大戦後の産業合理化運動を推進

 大正初めの大阪は、水の都から煙の都へと発展した。工場街には煙突が林立し、モウモウと黒煙をはいた。創設者五代友厚が夢みた東洋のマンチェスターへ、わずか40数年にして成長したのである。
 第一次世界大戦(大正3〜7年)がこうした繁栄のきっかけとなった。今日の主要産業となっている繊維、塗料、薬品、造船などはめざましい躍進をとげ、この時期に基礎が形成された。また、欧米に代って東洋諸国への輸出急増で大阪港は神戸、横浜両港を凌ぐ活況を呈した。
 こうした空前の好況は、戦後もしばらく続いた。が、大正9年には反動恐慌をきたし、戦争で築いた経済がいかに砂上の楼閣であったかを思い知らせた。大正5〜8年、年平均名目40%近い経済成長を続けたのが、同9年2.9%、10年マイナス6.4%となり、以後12年間低迷した。
 自由な大正デモクラシーを謳歌した時代ではあったが、社会的には不安定であった。大阪も同様で、大正7年米騒動や幾多の労働争議がひん発した。
 この低成長時代に対応して、大商は積極的に産業合理化運動を推進した。山岡第8代会頭は大正8年、これからの人材育成のため商業学力検定試験を実施し、合格者に商業学校卒業と同等の資格を付与した。これが現在大商が実施している珠算、簿記など各種検定試験の始まりで、全国の会議所珠算検定試験を始めたのが昭和15年のころだから、その進取性は驚きである。
 また、今西第9代会頭は講習会等でテーラーの科学的管理法による能率増進の普及に努める一方、大正9年「むだせぬ会」を組織し、消費の節約、産業合理化の実行を全大阪に呼びかけた。高成長から低成長へ突入した今日、何をなすべきかは、この歴史が無言に語りかけている。

むだせぬ会則第5条(抜すい)
会員ハ次ノ事項ヲ堅ク実行スルモノトス

(イ)時間ヲ勵行スルコト
(ロ)献酬ヲ廃止スルコト
(ハ)瓦斯、電灯及上水ヲ濫費セサルコト
(二)山菓子ヲ廃止及辭退スルコト
(ホ)香奠返ヲ廃止及辭退スルコト


2.国際活動の機能増大と実務教育の始まり

 会議所100年の歴史の中で、本格的な実務教育を始めたのは、大正中ごろの語学講習会であった。これは、大阪商工会議所が大正3年に設立、直接経営に当った大阪貿易語学校(現大阪貿易学院)の校舎を夏期に利用して、英語、中国語、露語およびタイプライター科の講習を行ったものである。大正9年の記録では第2回受講終了者400名と、当時にしては大変な盛況を示している。
 こうした語学教育は、海外市場が拡大した当時、産業界の急務であった。大商は、この産業界のニ−ズに応えていち早く人材教育の事業をとりあげた。これが実務教育の始まりであり、ここへきて近代的な会議所へ一歩脱皮したわけである。
 また、国際的な情報が少なかったので、大商事務局でも大正9年海外経済事情調査部門を特設して、世界各国の経済事情を月報等を通じて産業界への紹介に努めている。
 一方、同年12月、国際商業会議所への加盟を役員会で決議しており、いよいよ海外との交流も活発化している。また、地道な語学研修や貿易実務の事業に取組んでいる。
 今日、大商は、都市づくりの促進や産業振興の中心的な役割を果すとともに、国際活動の拠点となっているが、この時期、国際活動ができる基礎が固まっている。

●第8代会頭/大正6年12月〜l0年3月
●出身地/石川県金沢市、慶応2年9月18日生れ
●職歴/逓信省動務、大阪商船社長(31年)、大阪鉄工所・大阪製鎖所・日本電力(株)・大阪住宅経営会社設立
●資料/山岡順太郎伝(鹿子木彦三郎)、大阪財界人物史(国勢協会)

●第9代会頭/大正l0年4月〜11年12月
●出身地/愛媛県北宇和郡、嘉永5年2月5日生れ
●職歴/大阪同盟汽船取扱会社社長・山陽鉄道支配人、大阪三品取引所・大阪興業銀行・大阪瓦斯・阪神電気鉄道創立・大阪貿易語学校創立など
●資料/今西林≡郎遺文録(小松光夫編)


2003.4.1更新
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