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創立時代の大阪商法会議所
明治11年〜同23年

新しい財界指導者らにより大阪商法会議所(大商の前身)が設立され、主要な国策への諮間答申、同業組合づくり、貿易振興に尽カし、衰退した大阪経済再生の基となった。この時期、関西の企業家精神が開花し、近代産業が誕生した。

1.大阪商法会議所の設立と動機

 天下の台所と謳われた大阪は、明治維新の改革で大きな打撃をうけ、経済活動は極めて衰退した。
 その主な原因は、上方で主に商品取引の際に基準とされていた銀目(銀建の慣行)の廃止や株仲間の解散で商取引きが混乱し、また度々のご用金調達、藩債の整理が行われて、富家や両替商は大部分の資産を失った。そのうえ従来の商人は新時代に素早く対応する姿勢を欠いていたためであった。
 こうした衰退を救い、大阪経済の繁栄を再現するため、新しいタイプの財界指導者有志15名によって、明治11年7月大阪商法会議所設立の願書が大阪府知事へ提出された。同年8月27日、大阪府の認可をえ、今日の大阪商工会議所の礎石が築かれた。
 渡辺大阪府知事に提出された設立儀願書によると「欧米各国に於て多く商法会議所の設け有之其実践を伝聞せしに頗る便益を極め即に東京府下に於ては有志の者発起其筋へ上願許可を蒙りたる趣御府下の儀商家稠密物品輻輳の地。然るに各自旧慣に安んじ商則も不相立より一般の公利を興す能ず。依て商法会譲所を設立して広く論議を尽し候は、自然内外商業の利害を明らかにし会員協同の力生じ、随って全般の公利を興し、商業の成跡を改良するに至り可申は必然にて……」云々と述べている。このように大阪経済の振興が会議所設立の直接の動機であった。

出典:『浪華商工技芸名所智掾 商用手引』 明治18年


設立の儀願書に連署した人々

中井由兵衛・白木保三
斉藤慶則・磯野小右衛門
芝川又平・藤田伝三郎
井藤儀兵衛・妹尾平次郎
山本忠・高田伝蔵・金沢卯右衛門
沢田世範・広瀬宰平
中野梧一.五代友厚
(当時、士族出身は五代だけであった)


2.五代友厚と大阪の再生

 現在の大阪商工会議所ビル前に、初代会頭五代友厚の銅像が建っている。右足を半歩前に、右掌を上に一寸前へ出して、示現流の使い手がいつでも抜刃できるポーズである。
 この五代の人物と業績を知る人は、今日の大阪でもごく少ない。彼こそは、近代大阪の育ての親であり、忘れがたい大阪の恩人である。
 五代友厚は、天保6年鹿児島に生れ、14才の時、世界地図を模写して藩公に献上した才人であった。欧州留学で外国事情に明るいため、明治元年外国事務局判事として大阪在勤になった。これが大阪とかかわる第一歩であった。
 彼は間もなく官を辞し、民間に投じ、大阪の退勢ばん回に努力した。氏が自ら起した事業は金銀分析所、鉱山開発弘成館、朝陽館、関西貿易会社などであった。また大阪造幣局、大阪商業講習所(現大阪市立大学)、阪堺鉄道(現南海電車)、株式取引所、堂島米商会所、大阪製銅会社、大阪商船と、当時の主要な会社の設立に関与した。
 こうして眠っていた大阪の商業資本を再生した功績は実に大きい。しかし彼は企業家としてより、むしろオルガナイザーとして面目躍如としており、会議所を創設して、よく産業界の結束を図り、会議所運営の基礎を築いた。
 東の渋沢栄一と並び称される五代が満49才の若さで亡くなったことは、大阪にとってまことに不幸であった。遺言で大阪の土となった。墓は阿倍野斉場にある。当時、街のおかみさん連中までが、「五代はんは大阪の恩人や」と語りついで、その死を悼んだ。

●第1代会頭/明治11年9月〜18年9月
●出身地/薩摩国鹿児島郡、天保6年12月26日生れ
●職歴/金銀分析所・大阪活版所・弘成館・朝陽館・大阪製銅所等設立、株式取引所・商法会議所・大阪商業講習所(13年)創設など
●資料/近代之偉人故五代友厚伝(田中豊次郎)、五代友厚伝記資料(東洋経済新報社)、五代友厚伝(五代龍作編)など


3.産業振興と調査活動

 明治時代の会議は、どんな風景であったろうか。どうも、商売人は昼間、多忙なので、組合などの会合は土曜日とか夕方ないし夜間に開かれるのが普通であったようだ。
 大阪商法会議所の規定では、定式会、臨時会(以上総会)、委員会の三種があった。これらは、定式会が毎月第2水曜日、臨時会が適時、委員会が毎月第1、第2土曜日と、定例日が決っていて、それも午後に開かれた。
 委員会は商業部、工業部、運輸部、貨幣部、統計部が置かれ、1週間または2週間ごとに開催された。各部の委員は30〜36名ぐらいで、それぞれ所属部に応じて調査や統計収集などの事務分担が割当てられた。会合は、委員自ら調査した景況の報告や業界の問題点を提起して、運営される仕組みであった。
 各部の決議事項は総会へ提案され諮られる。議場は予め決っている議員番号が座席につけられ、総会の議長である会頭は議員を○○さんと呼ぶ代わりに番号で呼び、その番号の議員が立って討議が交わされた。当時の会議模様はざっと以上のようであった。
 こうして運営された大阪商法会議所は、創立後すぐ産業振興、調査活動を積極的に行っている。まず「商業仲間の成則」を決議し、まとまりのない同業者の団結の急務を提唱した。これにより砂糖商を手初めに、明治12年末までに189の同業組合づくりをしている。また、外交条約改正や海関税改正、さらに商標条例の制定のために、政府は会議所の諮問答申の意見を大いに参考にしている。
 とくに、経済調査機関が完備していない当時、政府諮問に応えて、この時期の商慣習を詳細に調べるとともに、天保元年から50年間の大阪主要商品の物価調査を行って、徳川時代から明治初めの商業状態を知る貴重な文献となっている。

●第2代会頭/明治18年11月〜21年3月
●出身地/長州萩、天保12年5月15日生れ
●職歴/藤田組製革場・大阪硫酸製造会社・阪堺鉄道会社設立、大阪商品取引所創立など
●資料/日本実業家列伝(木村毅)、藤田伝三郎伝(大河内翠山)

●第3代会頭/明治21年3月〜24年7月
●第5代会頭/明治26年3月〜27年3月
●出身地/大阪靱、天保9年9月生れ
●職歴/近江屋・第四十二国立銀行・大阪商船会社設立など
●資料/郷土史にかがやく人々(大阪府)


2006.5.26更新
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