明治時代の会議は、どんな風景であったろうか。どうも、商売人は昼間、多忙なので、組合などの会合は土曜日とか夕方ないし夜間に開かれるのが普通であったようだ。
大阪商法会議所の規定では、定式会、臨時会(以上総会)、委員会の三種があった。これらは、定式会が毎月第2水曜日、臨時会が適時、委員会が毎月第1、第2土曜日と、定例日が決っていて、それも午後に開かれた。
委員会は商業部、工業部、運輸部、貨幣部、統計部が置かれ、1週間または2週間ごとに開催された。各部の委員は30〜36名ぐらいで、それぞれ所属部に応じて調査や統計収集などの事務分担が割当てられた。会合は、委員自ら調査した景況の報告や業界の問題点を提起して、運営される仕組みであった。
各部の決議事項は総会へ提案され諮られる。議場は予め決っている議員番号が座席につけられ、総会の議長である会頭は議員を○○さんと呼ぶ代わりに番号で呼び、その番号の議員が立って討議が交わされた。当時の会議模様はざっと以上のようであった。
こうして運営された大阪商法会議所は、創立後すぐ産業振興、調査活動を積極的に行っている。まず「商業仲間の成則」を決議し、まとまりのない同業者の団結の急務を提唱した。これにより砂糖商を手初めに、明治12年末までに189の同業組合づくりをしている。また、外交条約改正や海関税改正、さらに商標条例の制定のために、政府は会議所の諮問答申の意見を大いに参考にしている。
とくに、経済調査機関が完備していない当時、政府諮問に応えて、この時期の商慣習を詳細に調べるとともに、天保元年から50年間の大阪主要商品の物価調査を行って、徳川時代から明治初めの商業状態を知る貴重な文献となっている。
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●第2代会頭/明治18年11月〜21年3月
●出身地/長州萩、天保12年5月15日生れ
●職歴/藤田組製革場・大阪硫酸製造会社・阪堺鉄道会社設立、大阪商品取引所創立など
●資料/日本実業家列伝(木村毅)、藤田伝三郎伝(大河内翠山) |
●第3代会頭/明治21年3月〜24年7月
●第5代会頭/明治26年3月〜27年3月
●出身地/大阪靱、天保9年9月生れ
●職歴/近江屋・第四十二国立銀行・大阪商船会社設立など
●資料/郷土史にかがやく人々(大阪府) |
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